三位一体の主日(B)

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ38・19-20)

ボッティチェリ「聖三位一体とマグダラのマリア、洗礼者ヨハネ、トビア、天使」、1491―93年、コートールド美術研究所所蔵
ボッティチェリ「聖三位一体とマグダラのマリア、洗礼者ヨハネ、トビア、天使」、1491―93年、コートールド美術研究所所蔵

 教会の典礼暦によると、キリストの復活・昇天、聖霊降臨を祝う復活節が終わって、イエスの行いを黙想する年間に入るところだ。ところが、復活節直後には二つの特別な祭日がある。三位一体の主日と聖体の祭日だ。この二つの祭日はもともとは信者から始まり、ヨーロッパでは町中の行列などの催しによって盛大に祝われてきた。そのために、第二バチカン公会議の典礼改革の際にも残され、またABC年のそれぞれに違った朗読箇所が選ばれた。だから、今年の箇所だけではなく、3年分の箇所を合わせ読めば、祭日の意味をよく理解することができ、三位一体は一年に一回だけ思い出されるべき事柄ではなく、私たちの信仰の根本であることがわかる。そのことは聖体の祭日も同じだ。

 三位一体と言うと、難しい印象があるが、よく考えると、赤ちゃんでもわかることだ。三位一体という言葉は2世紀ごろ神学者が使ったもので、聖書には出て来ないが、三位一体という事柄そのものは新約聖書に書かれており、旧約聖書にも萌芽的に含まれている。水を指す言葉と水そのものが違うように、教義としての三位一体と私たちを生かしている三位一体は違うのだ。三位一体を私たちにもっとも知らせたのがイエスだ。イエスは自身神の子でありながら、三位一体が何であるかを理解させるためにわざわざ私たちのところに来た。それは教師として教科書に書いてあることを教えるということではなく、十字架上で死ぬほど命がけで、神がどういう方であるかを私たちに伝えようとしたのだ。だから、三位一体は大切なことだ。

 今日の福音朗読箇所はマタイ福音書の最後の箇所。短い箇所だが、いくつかの点について黙想したい。

 「十一人の弟子たち」。11人とは衝撃的だ。ふつう福音書には、イエスの弟子は12人とあるが、この箇所はユダがいなくなった後のことなのだ。(ユダはただ弱くて裏切ったわけでない。ユダはイエスの教えを三年間聞いて、納得できず、信じられなかった。イエスを異端者、危険人物と考え、祭司長たちに任そうとしたのだ。)マタイが言う「十一人の弟子たち」とは、一人がイエスから離れていなくなり、信仰の面で欠落がある教会共同体のこと(それはずっと後の時代の私たちのことでもある)。同じことは少し後にも言われる。

 「しかし、疑う者もいた」。不思議なことだが、弟子たちは50日間、生きているイエスを経験し、イエスといっしょに食事をし、イエスの傷に手を入れても、信じない人がまだいたのだ。私たち一人一人にそのようなところがある。公教要理を習っても聖書を読んでも説教を何回も聞いても、イエスをまだ十分に知らず、まだ信仰者になりきっていないのだ。だから、今日の福音は昔の話ではなく、私たちについての福音だ。

 「ガリラヤに行き」。なぜガリラヤか。イエスが十字架につけられたのも、復活したイエスが婦人たちに現れたのもエルサレムだった。しかし、イエスは婦人たちに「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」と言った。ガリラヤとは最初の時だ。イエスが今日私たちに言うのは、最初の出会いに戻りなさいということ。あなたの生活にはいろいろなことがあった、いいことも弱さも罪もあったが、私に会った最初の頃に戻りなさいということなのだ。

 「イエスは、近寄って来て言われた」。これからイエスが言うこと、神が父であり子であり聖霊であることー三位一体は、人間がその知恵と努力を振り絞って神について考えたことではなく、神自身がイエスによって私たちのそばにまで来て(「近寄って来て」)教えたことなのだ。このことが大切だ。三位一体は理屈ではない、哲学ではない、ただの教義ではない。三位一体はイエスが命をかけて私たちに伝えようとしたことなのだ。

 「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」。この言葉は派遣を意味する。死んで復活したイエスは、罪だらけの弱い教会を派遣するのだ。ペトロをはじめ弟子たちは、イエスが死んだ後、自分の弱さを知って、怖れおびえていた。それは私たちの状態だ。信仰はあっても、弱さのため恐れ疑うことがある。しかし、そんな弱い教会なのに、イエスは大切な知らせを世界に届けるために派遣する。それがこの言葉だ。この言葉は、新約聖書で三位一体についてもっともはっきり言われる大切な言葉だ。

 「洗礼」。洗礼と言うと、私たちは自分が信者になった時に教会で司祭が頭に水を注いだ洗礼式を思い出すが、しかし当時教会にそういった式はまだなかった。典礼は200年のあいだに少しずつ形ができてきた。最初期の洗礼ももちろん洗礼者ヨハネの洗礼とはちがっていて、イエスの名によって洗礼を授けたにちがいない。ここで注意すべきなのは、洗礼は式だけではないこと。洗礼は、恵みと力に溢れる経験だ。水の中に沈んで浮かび上がるように、三位一体の神の愛の中に死んで復活するという経験だ。私たちは、魚が水の中にいるように、三位一体のうちに生かされるのだ。そして、教会が世界に送られた目的は出会ったイエスによって罪を赦されるなど体験したことを伝えるためであって、教義を教えるためではない。その体験は人生を根本から変えるもので、言葉で言い表すことができない。おびえていた弱い弟子たちも、どんどん力が出てきて、殉教者になったほどだ。

 「父と子と聖霊の名によって」。2世紀のローマ教父テルトゥリアヌスは、朝起きた時、食事をする時、仕事や勉強を始める時、寝る時、「父と子と聖霊の名によって」十字を切るのがキリスト者のしるしと言った。十字を切ることを大切にして、子どもにも教えるべきだ。十字を切ることで私たちは、大切なことを思い出す。大切なことが生活の力になるように私たちは十字を切るのだ。それを深めることで私たちはいい信者になる。

 「父」。神が父であることはイエスが教えたことで、それまで誰も知らなかったこと。また誰もアッバという赤ちゃん言葉を神に向かって使う資格がなかった。私たちはみな造られたもので、神の子ではないから。しかし、イエスが私たちに教えたのは、私たちは造られただけでなく、神のまことの子であるキリストと信仰によって一つになって、神の子になることができること。それは深い神秘だ。ヨハネ福音書によると、イエスは弟子たちに現れた時、弟子たちに息を吹きかけた(20・22)。それは彼が十字架上で死んだ時、吐いた最後の息であり、神の命だ。弟子たちは神の命そのものを吹き込まれたのだ。だから、私たちは神の子になることができる。

 「子」。子とはイエスのこと。神自身が人間となって世に来て、難しい言葉や教義ではなく、赤ちゃんが使う言葉(「アッバ」)さえ使って父なる神との関係を私たちに教えようとした。

 「聖霊」。父と子が愛し合う愛が聖霊だ。春一番の風が吹く時、冬のあいだ死んでいるように見えた自然が甦り、花が咲き、緑が生い茂り、川は流れる。それと同じように、私たちは聖霊によって生かされて、愛や喜びや平和といった実を結ぶ(ガラテヤ5)のだ。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。これはマタイ福音書の中心的なメッセージだ。マタイ福音書はその最初(1・23)と最後で、インマニエル、ともにいる神によってはさまれている。

 イエスが私たちに教えたのは、神の中に交わりがあること。私たちの神は遠いところにひとりぼっちでいる神ではない。私たちの神は一神教の神であるだけでなく三位一体の神なのだ。いろいろな国のいろいろな民族が一神教を信じるが、神は遠いところにいると考えている。そして、神について自分勝手な考えを抱く。ところが、神自身がイエスによって人間となって、自身がどのような神でありどのような心をもっているかを私たちに教えに来たのだ。それを今日私たちは祝う。それはたいへんなことだ。大切にして、時間をかけて祈り観想すべきだ。三位一体を頭ではなく、心で知り、たとえおびえながらの信仰であったとしても、イエスの前に、三位一体の前にひれ伏して拝み、その喜びを味わうようにしたい。 三位一体は、世界にあるすべてのよいものが湧き出る泉なのだから。