前田万葉大司教(大阪教区)、枢機卿に

 2009年に白柳枢機卿が亡くなって以来、日本人の枢機卿はいませんでしたが、前田万葉大司教(大阪教区)が枢機卿になることが先日発表されました。日本人としては6人目です。詳しくはこちら(カトリック中央協議会)をご覧ください。

 前田大司教は1949年、長崎五島列島生まれ。生まれ育った中通島の仲知は住民のほとんどがカトリック信者で、子どもたちは毎朝ミサに通うのがふつうだったとのこと。家族にも、明治初期のキリシタン迫害に遭った曽祖父や、村八分にされながらカトリックに改宗した祖父がいるそうです。父の兄の一人は司祭となり、父は司祭になる夢をかろうじて断念して小学校教員になり、11人の子どもを育て息子4人を神学校に入れたそうです。「なぜ信者にしたのか」「なぜ神学校にやったのか」と親を恨む時があっても司祭になった長男が万葉神父。一年の助任を経て、五島列島、佐世保、平戸の主任司祭を歴任します。

 ちょうど叙階15年目に動脈の難病(ビュルガー病)になり入院手術。足の切断の可能性を医者に指摘されて、一日約50本吸っていたタバコも絶ちました。しかし、病気は「力と希望」「勇気と解放」のきっかけになったよう。その後、高校の卒業式の訓話で湾岸戦争に触れて新聞に載ったり、教会敷地内のアスファルト舗装計画に待ったをかけたり。

 そして、31年にわたる小教区での司牧活動の後、中央協議会事務局長に就任し、その5年後に広島教区司教に、さらに3年後に大阪教区大司教になります。主任時代からエキュメニズムの集いに参加していましたが、司教としても中央協議会でエキュメニズム関係の委員長を務めています。

 昨年、『烏賊墨の一筋垂れて冬の弥撒』(リンクはamazon)という本を出版したそうです。教会報の文章や講演・対談をまとめたもので、教会生活のさまざまな問題が触れられていて、長崎の信者の信仰や教会の具体的な様子を知るためによい本です。しかし、一番の特徴は、頁のあちこちに俳句や短歌が散りばめられていること。神父様は万葉という名前のために人から勧められて俳句を作るようになったのだそうです。本の題名となった俳句は、釣りから早朝のミサに駆けつけた時のことを詠んだもの。

 他にもいくつか紹介しましょう。

 

飼い葉桶餌と成しか神の御子

 

この句を神への冒瀆と非難した司祭もいるそうですが、ミサの祭壇は、キリストが私たちを生かすためにパンとなりぶどう酒となる場だから、飼い葉桶のようなものだと言います。キリストが「仕えられるためではなく仕えるために」(マタイ20章)来たというのはまさにそのことだということ。そういう愛を体験してほしいと、結婚式の司式の際にはいつも「仕え合って仕合せに」と説教するのだそうです。また、自身の父も11人の子どもを育てるため学校の仕事の後も深夜まで畑を耕すほど働いて早死したそうです。風邪を顧みず青年の聖地巡礼に付き添い肺炎で亡くなった故島本要長崎大司教も「私たちはいかに美味しく食べてもらうかだね」と言っていたというエピソードも本書で紹介されています。

 

10月や繰るコンタツは家庭の和

 

子供のころ、父母が夫婦喧嘩しても、夕の祈りの時間になると、何もなかったように、家族いっしょに祈ったとのこと。そのため、父母が喧嘩していると、子どもたちからロザリオの祈りを始めることがあったそうです。こんな信仰の原体験が新枢機卿にあるのですね。

 パリ宣教会の神父様たちも、迫害に遭った時には十字を切って「天にまします」「めでたし」を唱えることを信者に教えていたのだそうです。

 

 谷川の水をもとめし鹿のごと

神を慕いし先祖らの御堂

 

曽祖父の一人白浜岩助は平戸の牢で拷問を受け、棄教すると言って帰ると、キリシタンに戻ったそうです。そして、痛悔と困窮の中で建てたのが野首天主堂(野崎島)。「神様はその都度『私を愛しているか』と問われるはずです。それで転んだとしても、それにも増して、また『愛しているか』と問われるのです」。「岩助爺も若い時には、もう信仰を捨てますと言ったかもしれないけれども、一生をかけてその償いをして、そして、一生をかけて信仰を証した。そして、最後は、殉教と同じだと思います」。

 新枢機卿が受けた使命に忠実であるように祈りましょう。