キリストの聖体(B)

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。(マルコ14・22-24)

フアン・デ・フアネス「最後の晩餐」、1562年頃、プラド美術館所蔵
フアン・デ・フアネス「最後の晩餐」、1562年頃、プラド美術館所蔵

今日の祭日

 今日の祭日は日本では「キリストの聖体の祭日」と呼ばれるが、ラテン語の正式名称は「主の至聖なる御体と御血の日」(Dies Sanctissimi Corporis et Sanguinis Domini )だ。それは歴史的には信者の信心から生まれた祭日で、信者にとても親しまれている(2017年の黙想も参照)。宗教的な祭日だが、同時に、(特にトリエント公会議後は)教会の外でも信仰を示す機会でもあった。行列が行われ、道には花びらが敷かれたり。その歴史的影響は宗教にとどまらず、聖体について優れた絵画や聖歌が数多く創作されてきた。よく知られているように、聖トマス・アクィナスも聖体についての聖歌を作詞している。

 

マルコ福音書の最後の晩餐

 第二バチカン公会議の典礼改革後、B年はマルコ福音書を中心に読まれる年。今日の箇所はマルコ14・12−16、22−26、最後の晩餐の箇所だ。復活節は終わったが、またその箇所に戻るのだ。過ぎ越しの食事の際にイエスは聖体を制定する。だから、聖体は、ユダヤ人が出エジプトを祝う過ぎ越し祭を完成するものなのだ。なお、今日の箇所には途中省かれている箇所があるが、そこにはユダのエピソードがある。

最期の晩餐の場所

  イエスはエルサレムではなく、エルサレムの外、ベタニアにいるようだ。イエスは二人の弟子をエルサレムに送る。イエスの指示についてマルコは細部を書く。イエスが捕えられた時、裸で逃げる若者(マルコ14・51-52)は福音書記者マルコ自身とも言われ、また最後の晩餐があったのはマルコの実家の2階とも推測されているから、その細部は注目される。

「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う」

ジェームズ・ティソ「水がめを運ぶ男」、1886-96年、ブルックリン美術館
ジェームズ・ティソ「水がめを運ぶ男」、1886-96年、ブルックリン美術館

 水を汲みに行くのは当時は女性の仕事だったから、男が水がめを運ぶとは普通ではない。マルコはヨハネよりずっと先に福音書を書いたとはいえ、ヨハネ福音書のカナの婚宴やサマリアの女に出てくる水がめが思い出される。そして、水は喉の渇きを連想させる。マルコのこの記述に基づいて、最後の晩餐を描く絵画にも水がめが描かれたりする。

「すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」

  過ぎ越しの食事の準備はほとんどされていたのだ。そこになかったのはただキリストだけ。準備されていたのは旧約の過ぎ越しにすぎなかった。そこで、イエスが新しい過ぎ越しを始めるのだ。

旧約の過ぎ越し

  エジプト脱出を記念する過ぎ越しの食事に必要なものと言えば、ほふられた羊、酵母を入れないパン、苦菜だ。酵母を入れないパンはエジプト脱出を記念する。その時は発酵させる時間がなかったからだ。それから、必要ではなかったが、過ぎ越しの食事にはぶどう酒も添えられた。旧約聖書によると、ぶどう酒は喜びを意味し、雅歌にも出て来る。ぶどう酒は何よりも、メシアが来るときの喜びのしるしだ。

キリストの過ぎ越し

  イエスの過ぎ越しの新しさは、彼の裂いたパンが彼の体であること。また、ぶどう酒が彼の血であること。そして、ほふられる羊が彼自身であること。私は人間の罪を引き受け人間を救うために来たとイエスは宣言する。「取りなさい。これはわたしの体である…これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(1コリント11・23-26、イザヤ25・6を参照)。イエスはその体をパンとして食べさせ、血を流す。これによって、私たちはユダヤ人の過ぎ越しから出てキリストの過ぎ越しに入る。それは私たちにとって重大な時だキリストの過ぎ越しはエジプトからの脱出ではなく、新しい脱出だ。それによってキリストは新しい民を神のもとに連れて行く。

  新しい過ぎ越しにはもう一つ新しいところがある。その過ぎ越しは、カルバリオの丘と復活だけで終わるのではないということ。だから、キリストの体であるパンとキリストの血であるぶどう酒は過去の記念であるだけではなく、三つのことを意味する。聖体讃歌O Sacrum convivuumにあるように(2015年の黙想を参照)、聖体祭儀によって私たちは、1.キリストを受け入れ、2.その受難を思い起こし、3.未来の栄光を約束されるのだ。

「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」

  この言葉が意味するのは、旅がまだ終わっていないということ。イエスの復活の喜びは聖木曜日でも聖金曜日でも復活祭でもまだ終わっていない。それは昇天と聖霊降臨を超えて、永遠なる神の国に向かう。だから、私たちは聖体を拝領する時に、過去のことを思い出すだけではなく、まだ現れていない永遠なる神の世界を宣言するのだ。その喜びは永遠に終わることがない。

旅路の糧

 

 旅路の糧を意味するviaticumという言葉がある。それは教会用語で、例えば臨終の人に授ける聖体のこと。けれども、この言葉にはもっと広い意味がある。それは永遠の生命に向かっている教会の旅路の糧だ。罪から、悪から、死から完全に解放されて、永遠の喜びを得ることができる時を私たちは聖体祭儀によって思い出すのだ。聖体を生きる信者の喜びには終わりがない。聖体ははじまりにすぎない。今日私たちは聖体によってそれを祝うことになると宣言する。永遠に続くものが今ここで始まる。