年間第15主日(B)

イエスは、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。(マルコ6・7)

ジェームズ・ティソ「二人ずつ遣わした」、1886−1896年、ブルックリン美術館
ジェームズ・ティソ「二人ずつ遣わした」、1886−1896年、ブルックリン美術館

会堂から、見捨てられた人たちのところへ

 先週の福音箇所で、ナザレに戻ったイエス。しかし人々が信じないために奇跡を行うことができず、彼自身驚く。それ以降、マルコ福音書では、イエスは一度も会堂に行っていない。奇妙なことに、宗教の場所は神の霊を受け入れるのがもっとも難しい場所で、行っても無駄だと考えたのだろう。そしてイエスは、周りの村々で宣教を始める。宗教の中心ではなく、見捨てられた貧しい人たちのところに行くのだ。

派遣はこんにちまで続く

 今日の箇所でイエスは、そのために選んだ弟子たちを集める。そこには大切な言葉がある。「イエスは十二人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして遣わすことにされた」。「呼び寄せる」「遣わす」という二つの動詞が大切だ。そして、実は、ギリシア語では「遣わすことを始める」とある。つまり、派遣は一度だけの出来事ではなく、それ以降ずっとこんにちまで続く出来事であり、それがその時始まったのだ。だから、今日の箇所は教会にとってキリストによる派遣が始まる決定的な瞬間だ。その大切な原点に今日、教会は私たちを連れ戻す。

最初に記された預言書

  その大切さがよくわかるように、教会の典礼は、まったく違った時代に書かれた別のページを紹介する。第一朗読のアモス書はすばらしい本だが、紀元前8世紀に書かれた。ということは、第一朗読と福音朗読のあいだには900年の年月がある。それなのに、なぜこの箇所が選ばれたか。イスラエルには古くからさまざまな預言者がいて、預言者の集団もあった。けれども、最初に自分の言葉を書き残したのがアモス。イザヤをはじめ有名な預言者はずっと後に出て来る。

神の声を聞いた預言者アモス

 アモスの時代、イスラエルは北と南の二つの王国に分けられていた。北の王国の中心はベテルという町。現在のエルサレムからは2、30キロだ。ベテルには神殿があって、神殿の中には金の雄牛が祭られ、そのために特別な祭司が任命されていた。その町にアモスが行き、腐敗や不正、性的逸脱を厳しく批判する。それに対し、大祭司アマツヤは王ヤブロアムに味方してアモスを追い出そうとする。自分の国に帰れと。アモスは反論して言う、「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない」。私はその集団に属しているから活動しているのではない。私は自分の国で仕事があり、食べていくことができたから、お金のために預言しているのではない。私には大きな出来事があった。神の声が聞こえたのだ。―この点が重要だ。つまり、預言者アモスが活動するのは、神の声を聞いたから、神に呼ばれたからだ。

神の経験がなければ、派遣もない

 

 教会はそこに今日の箇所との共通性を見出す。最初の預言者アモスと、イエスが12人の使徒たちを集めて彼らに指示を与えたことには共通するものがある。どちらも、教会にとって大切な原点だ。神からの呼び出し、神の経験がなければ、派遣もないのだ。イエスはすでに山に登ったときに、12人の弟子を使徒として任命していた。そして、今日の箇所で、彼らを遣わすことを始める。それはこの箇所で終わることではなくて、イエスから呼ばれて送られる宣教はキリスト者の道でもあるのだ。

宣教は共同体にかかわること

 

 

 「二人ずつ組にして」。「二人」は、最小の共同体で、共同体の始まりだ。イエスの考えでは、宣教はいつも共同体にかかわること。一人ではなく二人で出かけることによって、互いに信頼し合い、助け合い、苦労を分かち合い、相談し合うことができる。宣教は教会の事柄なのだ。

 「汚れた霊に対する権能を授け」。「権能」と言っても、悪霊を追い出すためのものだから、人より上に立つとか人を抑圧するということではない。だから、「権能」とは、権力ではなく、役割を意味する。弟子たちもそれを理解するのに苦労していた。

 「汚れた霊」。霊には、神からの霊と、神に反する霊の二つがある。使徒たちは神に反する霊を追い出すために送られたのだ。

 「命じられた」。この言葉をマルコはこの箇所だけで使っているようだ。使徒たちはひょっとするとイエスの指示に反発していたかもしれない。

 

 「旅には杖一本のほか、何ももたず、パンも、袋も、また帯の中に金ももたず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」」。派遣については、マタイ福音書にもルカ福音書にも記述があるが、マルコの記述はもっとも古い。もしかしたら、この言葉はイエスが使った言葉そのままかもしれない。

人を解放するためには、自ら解放されていなければならない

 不思議なことにマルコは宣教の内容を記していない。神の国を述べ伝えるために行きなさいとイエスが言ったとは書いていない。マルコが強調するのは、何をしに送られたか、どんなメッセージを預かったかより、出かけるときのあり方だ。マルコはメッセージの内容より、メッセージを伝える人のあり方を伝える。内容と内容の伝え方は関連する。話し方、生き方がメッセージの妨げになってはいけない。遣わされる人たちは人に自由を与えるだけではなく、自ら自由でなければならない。圧迫されておらず、重荷を負っていないのでなければならない。要するに、間違った宗教、イデオロギーから解放されたあり方だ。神の国の知らせを受ける妨げになるものから人を解放するためには、自ら解放されていなければならないのだ。宣教の特徴は素朴さ、シンプルさだ。大げさなことではなく、神と人との直接の関係なのだ。

足の埃を払うのは異邦人に対してではなく

 「足の裏の埃を払い落としなさい」。ユダヤ人には、異邦人の家から帰る時に足の埃を払う習慣があった。しかし、ここは逆だ。イエスにとって問題なのは、ユダヤ人に対する異邦人ではなく、神の御心を行わない人だ。そこに、汚れがある。イエスは自分の家族が来たとき、彼の家族は血縁関係ではなく、神の御心を行う人だとはっきり言った(4・35)。

宣教は義務ではなく、心の要求

 

 今日の第一朗読と福音朗読は宣教の始まりだ。この二つの箇所は、2000年前、あるいは3000年前の物語ではない。教会にとってこんにちの私たちにもあてはまることだ。第二朗読でパウロはすばらしい言葉で神と出会う7つの段階について語っているが、そのように神と出会った私たちも宣教の担い手になると教会は言いたいのだ。私たちは世が始まる前から選ばれ、いろいろな恵みをいただき、キリストに出会い、キリストの復活を知って、キリストから送られるのだ。私たちのその物語は最初の派遣の続きだ。

 最後に、派遣と宣教は信仰の尺度だ。いただいた神の言葉を人に伝えたい心があるかどうかが、信仰があるかどうかを測るものさしになる。宣教は義務ではなく、心の要求だ。自分が経験したことを人に伝える要求がないなら、本当の信仰をもっていないことになる。