年間第16主日(B)

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。(マルコ6・34)

宣教から帰ってきた12人の弟子たち

  今日、福音書記者マルコは、やさしさあふれるイエスの言葉を伝える。宣教から帰ってきた12人の弟子は、成功を得意に思うと同時に疲れているはず。群衆がいない人里離れた所でしばらく時間を過ごすようにイエスは彼らを誘う。それはイエスと弟子たちとの親密なひとときであり、神とともに休む安息日だ。夏の休暇に入った人たちは自分に引き寄せてこの箇所を読むことだろう。この箇所はよく、忙しさの中で静かな時間をもったり、煩わしい活動から離れて休みをとる勧めとして理解される。もちろん、そのようなことも役に立つ。

牧者についてのエレミヤの言葉

 けれども、今日の典礼は、この箇所をもう少し深く理解するように私たちに勧める。この箇所を読む前に、それと関連する第一朗読として、ユダヤ人の牧者についてのエレミヤの言葉を教会は選んだのだ。だから、この二つの朗読は合わせてイエスについて表現しているものとして読むべきだ。

 牧者についてのエレミヤの言葉はきわめて厳しい。「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった」。この箇所と結びつけて読むと、マルコが伝えた出来事は特別な意味をもつ。 

 第一朗読の箇所がとりあげるのは、聖書によく出てくる、牧者と群れの関係。現代日本の私たちには馴染みのない生活だから見逃してしまうところがあるが、ユダヤ人には親しまれよく理解される話だ。

羊は、根本的に弱い人間のシンボル

  羊は他の動物と違って、羊飼いがいないと生きることができない動物。危険から自分を守る手段をもたず、狼が現れると逃げるしかできない。視力が弱いから、崖から落ちたり迷子になる危険がある。そのために互いに身を寄せ集団で生活する。だから、人間はよく羊にたとえられる。今日の第一朗読もそうだ。羊は、根本的に弱い人間、神に導かれるのでなければ生きることができない人間のシンボルだ。人間は最終的に神なしに生きることができない。人間の最大の間違いは、その状態に気づかないこと。そして、自分が神だと思ってしまったり、自分の力に信頼しすぎたりして、さまざまな災いや危険が生じる。逆に、自分の限界に気づき神が必要だとわかるのは人間の成長のしるしだ。自分の力だけ、自分の価値だけに信頼する人間は必ず滅びる。人間は根本的にケアを必要とする。愛情を注がれなければ生きていけない存在だ。だから、やさしくしてもらったり、慰めてもらったり、話を聞いてもらったり、導いてもらったり、治してもらったり、教えてもらわないと生きられない存在だ。しかし何よりも赦してもらわないといけない。どんな人も、赦しのあわれみを受けずに生きることができないし、それなしには、家族関係であれ友人関係であれ人間関係はありえない。子供も愛情を受けなければ、成長できない。私たちはしばしばそのような根本的な弱さを隠そうとするが、それが人間の根源状態だ。だから、人間は羊にたとえられるのだ。

他者にあわれみの心をもつ

 第二に、もう一つのテーマが今日の箇所に含まれている。マルコが伝えるように、神であるイエスが教えるところでは、人間は羊であるだけではなく、羊飼いでもある。人間らしく生きるには、他人に迷惑をかけないだけでは十分ではない。人間は他人を世話する必要がある。人間は、他者に対して司牧的な役割を果たすように造られている。それが人間の根本的な召し出しだ。 イエスの弟子は特にその召し出しを受けている。だから、イエスは、宣教から帰ってきて食事もできず疲れている弟子たちに、自分といっしょに休むように言うと同時に、大切なことを教えようとするのだ。弟子たちは人が癒やされ悪霊を追い出されたことで得意になっていたが、イエスは彼らにあわれみを教える。イエスが彼らに教えようとするのは、休まずに活動するという非人間的なことに見えるが、そうではない。イエスにとって一番大切なのは活動ではなく、他者に対して憐れみの心をもつこと。だから、今日の福音箇所でイエスが伝えるのは、ただの道徳や癒やしの活動ではなく、他者に対する心を整える必要があること。心の中にある思いだけが弟子たちの活動に意味を与える。 

大切なのは行いではなく心

 冒頭に「使徒たちはイエスのところに集まって来て」とあるが、「集まる」の原語としてはシュナゴンタイという動詞が使われている。名詞のシナゴーグはユダヤ人の会堂を意味する。つまり、弟子たちが集まったのは、いいことをしたから神に受け入れられるというようなユダヤ人的な考え方をしているからだ。それに対して、イエスは内面的な態度を示す。弟子たちも食事の暇がないほど活動はしていたが、イエスの特徴はあわれみを抱くことにある。休息や食事を忘れるのは、愛する人の特徴だ。恋人、友人、父母やきょうだいの特徴だ。大切なのは行いではなく、心だ。

  今日の箇所でイエスは、牧者のいない羊を見るように人々を見て、休みを返上する。続く箇所、パンを増やす箇所でイエスが弟子たちに伝えるのは、大切なのはよい活動をすることではなく、たとえ小さなことでも神に捧げることによって奇跡的な活動になるということだ。だから、教会にとって今日の箇所は、休暇を勧めることで次の箇所へただつなげるだけではなく、大切なことを示すことで深くつながっている。