年間第17主日(B)

イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。(ヨハネ6・11)

アンブロシウス・フランケン「パンと魚の増やし」、16世紀、アントワープ王立美術館所蔵
アンブロシウス・フランケン「パンと魚の増やし」、16世紀、アントワープ王立美術館所蔵

ヨハネ福音書第6章

  今日から5つの主日は、マルコ福音書の代わりにヨハネ福音書第6章が読まれる。第6章はヨハネ福音書でもっとも長い章であり、聖体について書かれている。今日読まれる冒頭の箇所の出来事は、他の福音書の5つの箇所に出てくるから、大切だ。第6章の残りの部分は、カファルナウムでの対話だが、その出来事についての神学的な解釈になっている。ヨハネはその大切な出来事の意味を私たちに伝えたいのだ。そこにはイエスの生涯と教会生活の意味が含まれている。だから、この第6章は、教会に与えられた大きな恵みであり、私たちは心を静かにして細部にまで注目すべきだ。感謝のうちにいただくと、信仰のすばらしさと大きな喜びが感じられる。

旧約聖書との関係

 ヨハネは出エジプト記を念頭に置きながらこの出来事を物語る。舞台は他の福音書では湖だが、この箇所では山。場面はイスラエルの過ぎ越しに合わせて、当時の過ぎ越し祭。そして、誘惑と試み、餓えと空腹、マナとパン。旧約聖書では、イスラエルの民が食べ物を願ってマナが与えられたが、この箇所では、人々が願わなくても神から食べ物が与えられる。

飢えとは、人間の根本的な乏しさ

 フィリポとアンデレは他の箇所にあまり出てこず、目立たない弟子。二人の発言が記されているのは、弟子たちが直面している困難な事態を示すため。それは、大勢の群衆がいるのに食べ物がないという事態だ(民数記11・13参照)。それに対してイエスはどのような態度をとるか。病人の癒やしなどを見てやってきた人たちに向かってイエスと弟子たちはどのような態度をとるか。それは私たちの問題でもある。

 イスラエルの民はその歴史の中でさまざまな形で飢えを体験した。金持ちでない一般の人々は一日に一度だけ食事をするのが習慣だった。聖書では飢えとは、人間の根本的な乏しさを意味する。

奇跡ではなく、しるし

 フィリポは言う、200デナリオンでも足りないと。それは常識的な判断だ。フィリポのその発言を記すことでヨハネが何よりも言いたいのは、人間の常識では不可能なイエス独特の解決があるということ。ヨハネはそれを奇跡ではなく、しるしと呼ぶ。ヨハネ独特の言葉遣いだ。それは、何か重大なことを指す看板のようなもので、そこに止まらずにもっと深く見なければならない。それは、イエスが誰かを知るためのしるしだ。

 この出来事には、多数の人々が出てくる。男だけで5000人で、女と子どもも入れるともっと増える。それに対して人間が差し出すのは、5つのパンと2匹の魚というわずかなもの。落差は大きい。人間がキリストに捧げたわずかなものがすべての人の食べ物になるのだ。ヨハネの関心はただ不思議な物語を伝えるのではなく、イエスは誰か、最後の晩餐でイエスが残したパンのしるしは何を意味するかを明らかにすることにある。前者はキリスト論的テーマであり、後者は聖体論的テーマだ。

メシアの到来

 注目すべき細部の一つは、弟子たちは困っているのに、イエスは困っていないこと。「御自分では何をしようとしているか知っておられた」(6節)。イエスは父なる神から送られたメシアとして、自分の民の空腹を満たそうとしていたから。ヨハネが言いたいのは、イエスは、食べ物を与えて空腹を満たし、安らぎを与える方ということ。人間の問題を解決する力のある方ということだ。

 それを示すために、ヨハネはさまざまな細部を使う。「草がたくさん生えていた」。それは春の季節を暗示する。過ぎ越し祭も春の祭だ。また、世のはじめを思い出させる。神は男と女を創造し祝福し「増えよ」と言った後、食べ物を与える。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」(創世記1・29)。預言書でも、食べ物は宗教的なシンボルとしてよく使われる。「万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒」(イザヤ25・6)。ヨハネはメシアが来たことを、そしてそれとともに喜びに満たされる新しい時代が来たことをそのような細部で言うのだ。その救いは人間の努力で得られるものではなく、ただで上から与えられる。そして、マナのように、その日の分だけ与えられるのではなく、残るほど豊かに与えられるのだ。また、貧しい人たちも金持ちのように横になった(日本語訳では「座った」)。横になって食べると召使いが必要だが、みなが金持ちのように豊かになったのだ。

最期の晩餐とミサ

 さらに、ヨハネはさまざまな細部によって、イエスが誰かだけではなく、イエスが最後に残したパンのしるしが何を意味するかを教えようとする。ヨハネはミサのときの言葉を使いながら物語る。たとえば「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから」。それはユダヤ人にとって普通の動作だったが、最後の晩餐のときのイエスの典型的な動作だ。ヨハネは「分け与える」という言葉も使う。ヨハネは彼の共同体に向かって、聖体を配るときに、それはキリストが行った動作であることを教えるためにそのような細部を記すのだ。

 聖体について深く理解させるために今日の典礼は預言者エリシャの物語を第一朗読として選んだ。二つのパンで100人の人たちが満足する話だ。しかし、イエスの場合は100人どころか5000人以上が満足する。

キリストの受難と死

  ヨハネが私たちに教えようとしているのは、「残ったパンの屑」、つまり割かれたパン(ラテン語のフラクチオ)がキリストの受難と死を意味すること。「残ったパンの屑」でいっぱいになった12の籠とはイスラエルの12部族と12使徒のこと。そのパンは、自分のためだけではなく、すべての人のために与えられている。だから、ヨハネは、最後の晩餐で割かれたパンは、十字架上で傷を受けたキリストの体であり、受け入れる人を満たす本当のパンであること、そのパンを食べる人は神の食べ物を受け入れることを教えたいのだ。

 そして、そのパンを割くとき、私たちは私たちの命を神と兄弟に捧げる。聖体は、愛をただ受けるだけではなく、受けた愛に応えることも含まれている。神を愛するだけではなく兄弟を愛さなければ聖体はありえない。

ガリラヤの危機

 最後に、福音書記者ヨハネが何度も書いているように、イエスがしるしを示したにもかかわらず、人々はなかなか信じることができない。今日の箇所では、イエスを王にするために連れて行こうとする。後の箇所では、多くの弟子がイエスから離れる。それを聖書学者はガリラヤの危機と呼ぶ。人々はーイエスを王にしようとした。つまり、彼らは未熟な赤ちゃんのように、食べ物を与えるイエスに依存しようとした。けれども、イエスの神は、人間が未熟な状態にとどまらず成熟した大人として、神を選び神を愛することを求める。神は私たちをパートナーとして望むのだ。世界のすべての生き物と同じように蟻も神を賛美する。けれども、神は人間に対してはそのような賛美では満足しない。多くの詩篇にあるように、造られたものが生きているだけで神を賛美しているのと同じような仕方だけで人間が神を賛美することを神は望まない。人間は神を選ぶことも拒むこともできるからこそ、神は人間の愛を求めるのだ。

 だから、今日の箇所でイエスは一人で山に逃げる。人々がイエスを追いかけたのはまだ不完全な仕方でだった。イエスが誰かを知ってではなく、ただの利益のために追いかけたのだ。ヨハネ福音書の冒頭にもある。「言葉は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1・11)。それに対して「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。それは私たちにとって大きな賭けだ。