年間第22主日(B)

「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7・15)

ベルナルディーノ・ルイーニ 「学者たちの真ん中のイエス」、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
ベルナルディーノ・ルイーニ 「学者たちの真ん中のイエス」、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

今日の箇所

 5つの主日にわたってヨハネ福音書6章を読んだが、今日からマルコ福音書に戻る。

 今日の箇所は、私たちの問いにイエスがわかりやすく答える感動的な箇所。日本の宗教との関係で注目すべきところがある。仏教や神道などの人々といっしょに読むと、イエスの特徴を理解してもらいやすい。

 

 ファリサイ派や律法学者に対する厳しい言葉が出て来るが、それと同時に喜びを感じることもできる。イエスの宗教は、厳しい罰や地獄で脅して私たちを恐れさせ抑えつける宗教ではなく、私たちを解放し自由にし元気にする宗教だからだ。だから、今日の箇所の裏には、本当の宗教とは何かという問題がある。

「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」。

  イエスはカファルナウムにいるが、カファルナウムはエルサレムから歩いて3日かかる田舎。それなのに、エルサレムからファリサイ派と律法学者の人たちがやって来る。これで2度目だ。ファリサイ派は一般の信徒で、宗教の決まりを熱心に守ろうとする。それには、神の言葉だけではなく、人間の「言い伝え」、つまり613あったルールも含まれる。ファリサイ派の人たちは厳格に掟を守る生活をしていて、自分たちは宗教者だと考えていた。それに対して、律法学者は神学者のような存在で、組織に属する宗教者。彼らは、たとえるなら、バチカンから特使が送られるようにイエスのところに送られたのだ。イエスの評判はエルサレムまで届いており、エルサレムの神殿の大祭司たちは、イエスが異端ではないかと懸念していた。

「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」。

  ローマでローマ人のために福音書を書いたマルコは注釈をつける。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず」。手を洗うとは、こんにちの母親が食事の前に子どもに注意するように、単に衛生的な行為ではなく、宗教的な清めの式だった。ユダヤ教では、清めの式が細かく定められていて、時間をかけて右手と左手に水をかけるとか、肘から先を洗うとか、間違ったら最初からやり直すとか、面倒な儀式だった。

「市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」。

 ユダヤ人たちは市場で異邦人に接触して汚れる心配をしていた。

 

 このような注釈を読むと、大げさな慣習に思えるが、考えてみれば、日本にも同じようなしきたりが見られる。一例を挙げると、葬式から帰宅した時に玄関先で使う清めの塩がそうだ。その裏には、死は汚れたものだという考え方がある。 

二つの大切なこと

 

 今日の福音箇所の最後でイエスは二つの大切なことを言う。

1.まずイエスが言うのは、汚れたものはないということ。私たちは二元論的な考え方をする。このやり方は汚れていて、あのやり方は清いと考える。カトリック信者であっても、日曜日はミサに行くが、普通の日はそれを忘れてすごす。日曜日のミサと日常生活があって、二元論になっている。しかし、日曜日のミサと日常生活は別物ではなく、一つのものだ。神を愛することと人間を愛することとは別のことではない。

2.次にイエスが問題にするのは心だ。今日の箇所には、「思い」という言葉が出てくる。心の中の思い、考え方が大切だ。何かが汚れているとか清いではなく、心の姿勢が大切なのだ。このことはキリスト教を理解し解放された生活を送るために欠かせないことだ。一例を挙げると、パウロの手紙に出てくるが、ローマでは、神々に捧げられた肉の残りが市場で安く売られていた。キリスト者にはユダヤ人もギリシア人もいたから、大きな議論になった。神々に捧げられた肉は、汚れているから食べてはいけないとユダヤ人は主張したが、パウロが言うのは、問題は食べ物ではないということ。きょうだいにスキャンダルとならないように避けてもいいが、問題は肉が清いか汚れているかではなく、神に感謝しなかったり、人と分かち合わないのが汚れなのだ。大切なのは、神に感謝しながら生きているか、人と分かち合うかだ。それは食べ物だけではなく、すべてにあてはまることだ。こんにちでも、富を所有することがよいことかどうかが問題になる。しかし、心がどうあるかが問題なのだ。

「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚す」

 ここで列挙されているのは、罪のリストに見える。パウロの手紙には逆のリストもある。しかし、このリストには、いくつかの特徴がある。たとえば、ここには12の名詞が挙げられているが、最初の6つは、日本語訳からはわからないが、複数形だ。つまり、何かの行為というより、態度を意味する。たとえば「盗み」の対象はポケットの中の財布だけではなく、他人の考え方や他人の名誉でもありうる。

本当の宗教とは

 本当の宗教は外面的な行いではない。たとえキリスト教にとってミサが大切であるとしても、ミサに行きさえすればよい信者で、毎日ミサに行けば一週間に一度行くよりもよい信者だというわけではない。大切なのは動機だ。もし他人よりもいい信者であるためにミサに行くなら、動機が間違っている。逆に一生懸命して失敗に終わったとしても、神からは受け入れられる。たとえ人から批判されたり見捨てられたとしても、よい動機で行ったなら、神はそれをご覧になるのだ。

 このことは私たちにとって大きな慰めだ。私たちは皆それぞれの形で罪人であって、毎日神の赦しを願うべきところがあるが、神の言葉によって人に対する感情を整え、心の動機をまっすぐに直したい。他人を赦さないままで聖体拝領するのは神に喜ばれることではない。きょうだいを赦しきょうだいに赦しを願わない限り、どんなに立派な行いをしたとしても、イエスにとってそれは本物の宗教ではない。イエスの今日の言葉に感謝しながら、一週間の一日一日を生きたい。