年間第24主日(B)

イエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」(マルコ8・27)

フィリポ・カイサリアと考えられている現在のバニアスの滝
フィリポ・カイサリアと考えられている現在のバニアスの滝

B年とマルコ福音書

  B年の典礼ではマルコ福音書が読まれるが、すべて読まれるわけではなく、読まれない箇所もある。先週の箇所と今日の箇所のあいだもかなりの箇所が飛ばされている。マルコが今日の箇所を書いた時に言おうとしていたことを理解するには、典礼で読まれない箇所も読んでおくのが理想的だ。

マルコ福音書の中心

  今日の箇所はマルコ8・27-35。イエスは長い旅路の途中で、自らの大切な使命を弟子たちに少しずつ伝えながら歩んでいる。聖書学者が言うには、今日の箇所はマルコ福音書の中心だ。イエスは、今日の箇所に始まって3回にわたり(8・31-33、9・33-34、10・32-40)、自らの受難(十字架)と死について弟子たちにはっきりと予告することになる。その中で今日の箇所を読むと、マルコの神学の理解に役立つ一つの特徴が浮かび上がる。3回とも、イエスが予告した後、弟子たちの反発や無理解が見られるのだ。マルコはそうした反応を伝えることによって、イエスを知る難しさと大切さを表現しようとする。今日の箇所の直前の箇所は盲人の癒しだが、盲人はイエスに一度ではなく二度触れられることで癒される。つまり、イエスがわかるのは一度にではなく少しずつなのだ。マルコの文体は教育者の文体だ。イエスを知るのは簡単なことではない。イエスが誰かを言葉で抽象的に教えるだけでは十分ではない。イエスの道の予告は、後に続く弟子たちの道に直結するからだ。

受難の予告

  第一の予告に反応するのはペトロ。ペトロは、師であるはずのイエスをいさめようとする。第二の予告に対して弟子たちは質問できないばかりか、誰がいちばん偉いかと言い争う。第三の予告に対して、ゼベダイの子たち、ヨハネとヤコブがイエスの右と左に座りたいと言う。要するに、マルコにとって、イエスの予告はいつも弟子たちの無理解に遭遇する。彼らはわかっていると思っているが、わかっていない。彼らはイエスがメシアだと思っても、権力や名誉に関心があり、イエスの弟子であることを完全に誤解している。

 今日私たちがミサで読むのは第一の予告だ。

「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった」。

  フィリポ・カイサリアはイスラエルの最北に位置し、以北は異邦人の地。ヨルダン川の支流の一つの起点となる滝があり、水の豊かな土地だ。バニアスと呼ばれ、古代ギリシアのパーン神に捧げられた神殿があった。出血症の女性の出身地だったという伝説もある。とても美しい地域で、イエスの「奥の細道」とでも言えようか。現在は国立自然公園に指定されている。

「その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた」。

 一般に私たちは自分のことがわからなくなると、他人の意見を尋ねるものだ。イエスはそうではない。後のペトロとのやりとりから明らかになるように、イエスは自分のことがわからずに自分を疑って弟子たちに尋ねているのではない。イエスは却って、自らの言動がどのように理解されているかを知りたい。イエスが最初の奇跡を行ったときから、彼がめざしていることと人々の受け止め方のあいだに落差がある。だから、イエスは、自分が何者か、何のために来たかを理解してもらうために弟子たちに質問したのだ。それに対する返答は混乱そのものだ。

「弟子たちは言った。『「洗礼者ヨハネだ」と言っています。ほかに、「エリヤだ」と言う人も、「預言者の一人だ」と言う人もいます。』」

 「洗礼者ヨハネ」。当時、殉教者はすぐ復活するという信仰があった。「エリヤ」。エリヤは偉大な預言者だが、異邦人を力で征服した権力者の一人だ。要するに、人々は、イエスに過去の再現を見るだけで、新しさを見ない。人々はそれまでのユダヤ人の考え方をし、自分の国を勝利に導く人物を期待していた。イエスを何もわかっていないのだ。弟子たちもそうだ。

「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか』」。

 この問いは当時の弟子たちだけではなく、どの時代の信者にとっても重い問いだ。今日イエスは私たちにも同じ問いを投げかけている。私たちにとってイエスは何者か。

「ペトロが答えた。『あなたは、メシアです』」。

 弟子たちを代表してペトロが答える。何度も確認したことだが、ペトロとは本名ではなくあだ名で、「頑固者」「頭の固い人」という意味で、ユーモアと厳しさが込められている。ペトロはイエスに憧れていたはずだが、イエスが誰かを理解するのにイエスの復活の後まで苦労する。「あなたは、メシアです」。メシア、キリストとは油で塗られた人、資格がある人を意味する。ちなみに、マタイ福音書の並行箇所ではペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるが、マルコによると、ペトロはイエスが神の子だとはまだわかっていない。この点にも、マルコの教育者的な面が現れている。

 ペトロは立派な返事をしたと思っただろう。しかし、マルコが強調するように、イエスは自分の道をペトロと他の弟子たちに告げる。

「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。

 それは弟子たちにとって考えられないことだった。苦しみを受けること。排斥されること。それはイエスが愛情と憐れみを向ける罪人からではなく、宗教の権力者からの排斥だ。そして、殺されること。

「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」。

 マルコはペトロに対する厳しい言葉を記す。「サタン」とは、イエスが悪霊にとりつかれた人に対して使う言葉だ。大切なのは、イエスが弟子たちを見ながら言っていること。この言葉はペトロだけではなくて弟子たち皆に対する言葉なのだ。「引き下がれ」とは「遠ざかれ」ではない。原語は「私の後に」となっている。イエスが言うのは、私の後に歩きなさい、本物の弟子になりなさいということ。だから、イエスはペトロを見捨てたり追い出すのではなく、自らの道の理解をペトロに求めているのだ。

「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。

 ペトロが考えていたのは自分の利益だ。ペトロは他の人よりも権力の中心につきたかったのだ。それは偶像崇拝と言える。サタン(悪魔)とは神の計画を失敗させようとする者。種蒔く人のたとえ話では、イエスが蒔く種(神の言葉)を食べてしまう鳥がサタンだ。計画を作るのはペトロではなく、ペトロは神の計画を実現するために呼ばれている。自分個人の考え方、自分の権力ではなく、神の考え方、神の権力が大切だ。

  イエスの宗教はそれまでの宗教に儀式などを加えたものではない。イエスの教えには根本的な変化がある。その新しさが大切で、イエスのすべての掟はそこからわかる。それは、それまでの神のイメージを完全に覆してイエスが宣言する神のイメージだ。罪人を滅ぼす神ではなく罪人を生かす神。それが神の国が近づいたことだ。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

  マルコはこの箇所ではじめて十字架という言葉を使う。イエスが言うのは、十字架につけられて死ぬという最後のことだけではない。イエスは「自分を捨て」とも言う。つまり、成功、野心、権力の夢を捨てるのだ。当時の習慣では、裁判で十字架刑に定められた犯罪者は、十字架の横木を肩に担いで、兵士に突かれて街中を歩かされ、からかわれたり唾を吐かれたりした。ラテン語でパティブルムと言われる。だから、イエスは最後の死だけではなく、死に至るまでの侮辱の過程を示唆している。犯罪者の孤独と侮蔑の経験を考えて「十字架を背負って」と言っているのだ。イエスが言うのは、イエスの後に従うとそのような可能性が出て来るということ。しかし、十字架を背負うのは決して義務ではない。「わたしの後に従いたい者」と訳されているが、原語では「わたしの後に従いたいなら」。弟子になることを神は義務づけない。人間にはそれを選ぶ自由がある。愛が無理矢理に押し付けられる義務ではないのと同じだ。イエスの後に従う人には、一部ではなくすべてをかけて試練と苦しみを選択する根本的な決断が必要だ。もっともイエスは人が弱いものだとよく知っている。だから、弟子も小さき者と呼ばれる。イエスが弟子に要求するのは、どんなことがあっても選択をやり直すこと。ペトロのように恐れや弱さのために裏切ったり罪を犯すことがあっても、毎日、試練の中でも拒否の中でも、イエスの道を選択し直すこと。イエスはそばにいて、その力を与える。

復活の最初の予告

  今日の箇所には、十字架の最初の予告とともに、復活の最初の予告が含まれている。それはイエスに信頼を置くことができる証拠だ。苦しみを通った後に救いがある。イエスを信頼する人は絶対に滅びない。

弟子たちとの親密さ

  今日の箇所からはイエスと弟子たちの親密さも感じ取られる。すでに言ったように、舞台は水と緑の豊かな美しい地方であり、出血症の女性とイエスとの出会いも連想させる場所だ。そのような場所をわざわざ選んで、ちょうど恋人に愛を打ち明けるように、イエスは自らにとって大切なことを弟子たちに告げたいのだ。私のために舟も家族も捨て3年間私といっしょにいて、いろんなことを見ていろいろな言葉を聞いて、私の友であるあなたたちは一体私について何を考えているか。

私たちへの問い

 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。今日の箇所のこの問いは、復活のイエスがペトロに投げかけた問いと同じだ。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(ヨハネ21・15)。同じような質問を三度イエスからされた「悲しくなった」ペトロからイエスは愛情を求め、教会を委ねる。

 今日、イエスは私たちにもこの問いを向けている。