年間第28主日(B)

金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。(マルコ10・25)

Boris Debic, Camel in Petra Jordan, Creative Commons
Boris Debic, Camel in Petra Jordan, Creative Commons

 私たちはみな幸福を求めている。しかし、何が幸せかはなかなかわからない。わかったとしても、それに命をかけるのは難しい。その結果、幸せになる好機を失う危険がある。今日の福音書の箇所の主人公はそういう人だったかもしれない。

 今日の箇所は3つに分けられる。1.イエスとその人。2.イエスと弟子たち。3.ペトロとイエス。
 「イエスが旅に出ようとされると、ある人が」。マルコはその人の名前を書いていない。福音書で人の名前が書かれていないのは、私たちが自分のことを考えるためとよく言われる。その人は、自分を大きく見せるため、富と名前、評判と宗教的な名声にすべてをかけた人だ。もしかしたら、生まれてこのかた、愛された経験がなかったかもしれない。自分には愛される価値がないと思い込んで、外面的に金持ちになって人の注意を引こうとしているのかもしれない。その結果、自分の幸せは富だと決めつけているが、内面では不幸せで寂しい。イエスの評判に惹かれてイエスのところに行く。もしかしたら幸せの秘密を教えてくれるかもしれないと考えるのだ。

 マルコ福音書には注意すべき2つの細部がある。「走り寄って、ひざまずいて」。ユダヤ人にとって走るのは賢明ではなかった。偉い人は走らない。マルコ福音書では二人だけがその態度をとる。悪霊に取りつかれたゲラサの人(「走り寄って」、5・6)と重い皮膚病を患っている人(「ひざまずいて」、1・40)だ。ただし、その二人は心も体も病気だったが、今日の箇所の人の病気は深いところに隠れていて見えない。幸せを求めているが、なかなかうまく行かない人という印象だ。

 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。「永遠の命」は死後の生命ではない。ユダヤ人は死後の生命にあまり関心を抱かなかった。「永遠の命」とは現在のことであり、こんにちの言葉でいえば、幸せとか生きる意味のことだ。その人は深い悩みをもっているようだ。
 イエスはユダヤ人の常識から話を始める。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。イエスは十戒のうち、神についての掟を無視して、隣人についての5つを引用する。そこにも注意すべきことがある。イエスは「隣人の妻を欲してはいけない」を避ける。先行する箇所のイエスの言葉によると、女性にも男性と同じ価値があるからだ。その代わりに、「奪い取るな」を入れる。この掟は十戒になく、申命記24・14から来る。「同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない」。この掟をイエスが入れるのは、その人が金持ちとわかっていて、その富が他の人から奪い取った不正なものであるかもしれないからだ。
 「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。その人は、熱心なユダヤ人だと自慢するのだ。何かファリサイ派のような響きがある。彼らは、ユダヤ人に生まれたことを自慢していた。
 「イエスは彼を見つめ」。これには注目すべきだ。その人の心の奥深くを見るのだ。「慈しんで」。この言葉にも注意が必要だ。慈しみ、愛という言葉を聞くと、現代の私たちは感情と考えるが、福音書ではそういう意味ではない。「イエスは彼を見つめ」。イエスは神の目で、その人にある可能性を見る。創造主である神として、罪人の中に聖人になる可能性を見るのだ。だから、イエスの愛は最終的に憐れみだ。イエスは自分が創造したものを神聖な目で見て、その真実を明るみに出す。「あなたに欠けているものが一つある」。あなたに富も名誉もあり、自分の民族にも地位にも満足しているが、足りないことがある。それはたくさんの中の一つではなく、根本的なことだ。
 「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」。ここには3つの動詞がある。それはいずれも有名な言葉だ。それをすれば、虫に食われない宝物を天に「積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。その人は何かの祈りなど特別なことを教えてもらうつもりだっただろう。しかし、不幸の深い原因が指摘された。人に自分をよく見せようと防護壁を作ることが生きる邪魔になっていたのだ。ザアカイと同じだ。ザアカイは背が低くて人から見下げられていたが、金持ちになれば見上げられると考えた。今日の箇所の人も、自分の努力、自分の宗教的な熱心さを褒めてもらえると思っていたのに、それが幻だと突きつけられたのだ。

 イエスは新しい世界を彼に開こうとする。神は人間の努力を見るのではなく、心の態度を見る。何よりも大切なのは、自分が与えることではなく、神の賜物をいただくこと。神を動かすのは、私たちの力ではなく、私たちの弱さであり、神の愛を受け入れる態度だ。マルコは今日の箇所の直前に、イエスと子どもたちのエピソードを記していた。私たちの弱さは神にとって大切だ。
 悪霊に取りつかれたゲラサの人は「走り寄って」、重い皮膚病を患っている人は「ひざまずいて」イエスに癒やされたが、今日の箇所の人はそうではない。イエスの言葉を聞いて、その人は「気を落とし、悲しみながら立ち去った」。その気持ちは癒やされなかった。大金持ちだったからだ。今日の箇所のメッセージはここにある。富には他の罪や弱さより危険なところがあるのだ。
 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。イエスは金持ちを憎んでいるわけではない。イエスの友には金持ちもいた。金持ちはいろいろな方法でイエスに協力した。住む家や食べ物を提供し、いっしょに旅をした。イエスの理想は貧しさでも空腹でもなく、神から愛されている者同士がきょうだいとして分かち合うこと。福音書には、レビ、ザアカイ、スザンナ、ヨハンナ、ラザロなど、そのような人たちの名前が出ている。彼らはみなイエスの言葉に従って、家に人を受け入れたり(ホスピタリティ)、貧しい人たちを助けたりした。そのような例は、例えばパウロを援助した女性リディア(使徒言行録16・14―15)をはじめ教会の歴史にも数多くある。イエスの弟子であるキリスト者は、神からいただいたものをみなと分かち合う時に幸せを感じる。それは物質的な富だけではなく、精神的な富、さまざまな神の賜物にあてはまる。
 イエスが使った有名な比喩では、人と分かち合いができない金持ちは、大きな荷物を積んで砂漠を渡るらくだが狭い扉にひっかかって通れないようなものだ。らくだは大きく醜く汚くて臭く、ユダヤ人には汚れた動物だった。「針の穴を通る」。ある解釈者たちは、エルサレムの城壁にいくつもの門があり、そのうちの一つはとても狭く、「針の穴」と呼ばれていたと言うが真実はわからない。

 大切なのは、イエスの厳しい言葉が弟子を行者にするためではないということ。イエスが教えようとするのは、新しい家族になる道だ。そこにはポジティブな面がある。「人間にできることではないが、神にはできる」。人間に不可能なことがなぜ可能になるか。その道を行くために大切なのは神のまなざしだ。神から見られ愛されている気づきが不可能なことを可能にする。立ち去った金持ちは自分の壁に閉じこもり、自分の行いに先行する神の愛情に気づくことができなかった。イエスの弟子は自分を失う恐れにとらわれるのではなく、自分が愛されている喜びに生きる。

 今日の福音書のイエスの言葉は理解しがたい。けれども、それぞれの時代にこのような言葉を現実の生活で生きる人たちがいる。目立つのは、富を利己主義的に集めないこと、富を分かち合うこと、そして人を受け入れること。ある教父は言う、節約のためだけに断食するならただのケチだが、分かち合うために断食するならキリスト者だ、と。今日の箇所についてキリスト者同士で分かち合いをしてみたい―現代で清貧を生きるにはどうしたらいいか。