年間第30主日(B)

盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。(マルコ10・50)

カール・ブロッホ「盲人の癒やし」、1871年、デンマーク国立歴史博物館所蔵
カール・ブロッホ「盲人の癒やし」、1871年、デンマーク国立歴史博物館所蔵

 私たちがこのところ読んでいるマルコ福音書の真ん中あたりは旅の物語。イエスは故郷を出て、神の国の始まりを宣言し、あちこち宣教しながら弟子を集め、さまざまな出会いがあり、さまざまな事件が起こる。その間イエスは何度も、自分が何者か、何のために来たか、本当の弟子であるとはどういうことかを弟子たちに教えようとする。もちろんマルコは起きた出来事をただ記録するのではなく、読者である私たちのことを考えている。私たちも弟子たちと同じようにイエスと歩きイエスを見ながら、イエスは一体何者か、本当の信者であるためにどうすればいいか、という問題を抱いているのだから、その私たちのためにマルコは書いているのだ。イエスがどれほど説明しても、どれほど癒やしや奇跡を行っても、弟子たちはなかなかわからず、最後までわからない。先週の箇所でも、二人の弟子がイエスのところに行って頼み事をした。イエスはエルサレムで殺されることを三度目に彼らに知らせたのに、彼らはまったくわからずに、えらくなることや権力をずっと考えていたのだ。それはイエスにとって大きな失望の時だ。「あなたがたは…分かっていない」。あなたたちが願う権力がどれほど危ないかわからないか、というイエスの正当な指摘だ。

 今日の箇所の理解のために大切だが、マルコ福音書では奇妙なことに、エルサレムへの旅のはじめと終わりにいずれも、盲人の癒やしの奇跡がある。旅のはじめはベトサイダという町で、イエスは盲人の目につばをつけたりして盲人を癒やした。その盲人は名前がなく、また一度には治らず、最初はまだ人間が木に見えたりした。他方、旅の最後の奇跡が今日の箇所だ。今日の箇所には、バルティマイという盲人の名前が書いてある。バルティマイという名前は半分ヘブライ語、半分ギリシア語だ。聖書学者によると、それには特別な意味がある。また、この人は一度にはっきりと見えることになる。

 数年前、ベルギーの有名な聖書学者が、マルコ福音書は一晩で読めるほど短くもっとも古い福音書だから復活徹夜祭に朗読されるために書かれたのではないかという見解を提示し、学者たちが議論している。その見解によると、エルサレムへの旅は求道者の旅だ。イエスから呼ばれ、イエスに癒やされて、信仰によって目が開き、イエスの道に入るのだ。今日の箇所は奇跡物語だから、ただの歴史的な出来事ではなく、教訓的神学的な意味をもっている。だから、求道者が洗礼の準備をするため、または信者が洗礼の意味を理解するための大切なエピソードなのだ。短い物語だが、大切なことが含まれている。とても美しく印象的な箇所だ。

 「一同はエリコの町に着いた」。エリコはエルサレムから25、6キロ離れた町。エリコを出ると、イエスが十字架につけられるエルサレムは目前だ。だから、旅のきわめて真剣な段階だ。

 エリコは八千年以上前からあり、世界最古の町とも言われる。世界一標高が低く、そこから、山にあるエルサレムへは狭く険しい道が続いていた。その道はよきサマリア人のたとえ話の舞台でもあり、よく強盗が現れたために人々はできるだけ集団でその道を通った。また、過ぎ越し祭の時にユダヤ人たちがよく上った道だ。イエスもその道をよく知っていた。エリコはオアシスだったから緑があったが、周りはほとんど荒れ地だった。

 「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき」。イエスはエリコに入ったが泊まらずにエルサレムに向けて町を出ようとしていた。ちょうどその時大切なことが起きる。

 「ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた」。バルティマイは、目が見えないだけでなく貧しかった。それは最下位の人だ。自立して生活できず、所有しているのはマント(上着)だけ。マントは貧しい人が所有する最低限のものだ。例えば旧約聖書では、貧しい人からマントを借りても、毛布としても使われたマントがなければ寝ることもできないから、夜は返さなければならなかった。だから、バルティマイ人は貧しい中でも貧しい人だ。他人に生かしてもらうしかない人だ。

 マルコが言うのは、バルティマイの状態は、私たちがイエスを知らずイエスの道を探している時の状態だということ。何がいいか何が悪いか、どう生きるべきかという問題を抱えて、私たちも道端に座っている。その道は当時たくさんの人たちが通っていた。その時は過ぎ越し祭に近かったから、エルサレムに向かうたくさんの人がいたことだろう。私たちの生活でも同じことだ。いろいろな人のいろいろな声が周りに聞こえる。

 「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた」。ここで大切なのは、バルティマイが目は見えないが、耳はいいこと。イエスが通っていること、この人は特別な人だということを聞くことができたのだ。神学的に言えば、信仰は耳から、言葉を聞くことから始まる。それはパウロが後にその神学で深く反省することだ。もし言葉を伝える人がいなければ、人は信じることができない。信仰が始まるのは聞くことによって、何よりも道の途上で与えられるイエスの言葉によってだ。それが信仰の始まりだ。キリスト教の根本は聞くことなのだ。イエスの言葉を聞いて、その言葉が神の言葉だと信じることによって、私たちの再生、生まれ変わりが始まる。バルティマイは目は見えないが、聞くことはできた。

 「多くの人が叱りつけて黙らせようとした」。人々はイエスに気を取られたり、自分の用事に気を取られたりして、バルティマイを邪魔者扱いする。イエスの後に歩いていた弟子たちでさえ、この人の憐れな状態に気づかない始末だ。 バルティマイは求道者のシンボルだ。求道者はまず自分の状態を意識し、自分に問題があると気づいた人だ。そして、求道者は救いを求める人、問題から立ち直ろうとする人だ。周りの人たちはそんな問題はどうでもいいと言うかもしれない。私たちも問題を乗り越えるために何かしようとしたら、周りの人たちが反発する。常識の考え方、テレビやマスコミの考え方がそんな問題はどうでもいいと言うのだ。私たちが信者になろうとするとき、信者になるともう結婚や再婚ができなくなるなど理屈を言って反対する声があったりする。友達であったり知り合いであったりマスコミであったり。教会に対する批判もそうだ。

 「が、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」。バルティマイは周りの人たちに負けない。3年間イエスの後に歩いていた弟子たちさえイエスをわかっていなかったのに、バルティマイはイエスに近づこうとする。 彼にとってそれは救いの時、ギリシア語で言えばカイロスだ。それは私たちの生活の中にある何かのきっかけのことだ。イエスが私たちの生活に近づく時、そのチャンスを掴むべきだ。それが求道者の技術だ。

 「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた」。イエスはバルティマイの叫びに気づく。イエスの周りには、いろいろな声があったのに、イエスはこの人の泣き声、この人の頼みの声を聞く。神の愛は、人類一般に対しての愛ではなく、私たち一人ひとりへの愛なのだ。

 そこにとても素晴らしい3つの言葉がある。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。これはマルコの3つの宝物だ。「安心しなさい」。もうだいじょうぶ。もう救いがあなたに届いた。もう道端に座らなくてもいい。神がもうあなたのそばに来ている。それは神が求道者に近づく時の言葉だ。「立ちなさい」。それは、イエスが復活した時に使われる言葉で、復活を意味する。イエスが人に近づく時、罪のために叱らない。イエスが罪人に、弱い人に近づくのは、地獄に落とすためではない。イエスにとっては罪はどうでもいい。どんな聖人になりうるかを見るのが神の目だ。福音書には、願いを抱いて近づいた人たちをイエスが叱った例は一つもいない。「お呼びだ」。神が私たちを愛するときは群衆として、グループとして、教会として、全人類としてではない。私たちの愛はそうだが、神の愛はそのような愛ではない。神はその人個人を愛するのだ。

 「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」。それは、先に言及した聖書学者の言うことが正しいなら、復活徹夜祭の夜に洗礼を受ける人のことだ。上着は彼の全財産だった。神が自分を愛していることを知ったバルティマイはまさにすべてを捨てて、イエスのところに行くのだ。

 「何をしてほしいのか」。すばらしいイエスの言葉で、福音書にはこれに似た表現が何度も出てくる。例えば、弟子たちが一晩中湖で漁をしたのに魚が釣れなかった時、岸に立ったイエスが「子たちよ、何か食べるものはあるか」と尋ねる。それは神が私たち一人ひとりに聞くことだ。生きるために何があるか。慰めや愛はあるか。

 「先生、目が見えるようになりたいのです」。日本語には「目が見えるようになる」と訳されているが、ギリシア語原語アナブレインは「もう一度見える」「もっとよく見える」という意味。先週の日曜日の二人の弟子はイエスの右と左につくこと、つまり権力を望んだが、ここでバルティマイと二人の弟子の違いが明らかになる。バルティマイはイエスを見ることを望んだのだ。「あなたの信仰があなたを救った」。イエスはベトサイダの盲人とは違って、目につばを塗ったりはしない。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」。バルティマイは、イエスの後に従って歩き始める。エルサレムに向かって。

 その後どうなったかは書かれていない。それは福音書に何回も出てくる結末のない(オープン・エンドの)物語だ。それは私たちの事柄だから。バルティマイのように私たちもイエスから名前を呼ばれ、イエスに従うように言われ、慰めと癒やしの言葉を与えられ、イエスの道に入ろうとする。だから、今日の物語の結末は私たち次第なのだ。