年間第31主日(B)

「あなたの神である主を愛しなさい…隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12・30、31)

 イスラエルの代表的な果物であるザクロ。民数記13:23をはじめ、旧約聖書のさまざまな箇所に出て来る。大祭司の衣服にもザクロの模様が使われた。ルビーのようなその赤い粒は、ミツワーと呼ばれるトーラ―の掟の数と同じく613あると言われている。ミツワーについてはこちら参照のこと。

 エルサレムに向かうイエスの長い旅は終着点に到達した。今日の箇所はイエスが十字架につけられる数日前のエピソードだ。典礼では、次の2つの年間主日と王であるキリストの祭日で、そのあと待降節と降誕節を祝う。だから、イエスの受難と死と復活が読まれるのは、さらに四旬節を経て聖週間になってからであり、その時は典礼年がB年からC年に代わっているから、マルコ福音書ではなくルカ福音書が読まれる。しかし、今日のマルコ福音書の箇所は、イエスの最後の数日の出来事であり、劇的な局面だと心に留めておきたい。

 マルコ福音書冒頭の2章と3章と同じように、エルサレムでイエスはさまざまな議論や批判に遭遇する。マルコ福音書では、イエスの公生活はその最初と最後で、無理解や批判、特にファリサイ派や律法学者など宗教の権力者たちの反発で挟まれているのだ。

 エルサレムへのイエスの到着は、民衆から歓迎されたが、大祭司をはじめ宗教の権力者たちから反発を受ける。しかし、外面的にはこのような劇的な状況でも、イエスの心の奥底には神聖な静けさがある。海が荒れていても、イエスの心の奥底は大地のように静かだ。マルコがその福音書で伝えるいくつかのエピソードは、開かれた窓のように、イエスの心の奥底にある根本的な体験を覗き見させてくれる。

 例えば、次の年間第32主日には、貧しいやもめのエピソードが読まれる。劇的な状況の中、イエスは静かに落ち着いて、人々が賽銭箱に入れるのを見、小さなことに気づくのだ。考えられないほど大きな事件に遭うのに、イエスは、考えられないほど繊細な愛情を示すのだ。 今日の箇所では、イエスの心の繊細さは律法学者に対する返答に示される。イエスは、法律的哲学的な議論に入らずに、自らの心の深み、父なる神の体験を表現する。今日の箇所はちょうど人々とのさまざまな議論が終わったばかりで、盛り上がった双方の感情はまだ落ち着いていなかったと想像してしまう。しかし、マルコが伝えるところでは、イエスは親密さややさしさを示すのだ。

 今日の箇所に出てくる律法学者は、イエスに反発する悪の世界に割れ目ができたかのように、自分が属する集団と違った態度をとる。イエスが戦っている世界は永久に存続するのではなく、崩れる気配がある。みなが反発しても、一人がイエスの味方をする。確かにまだその時ではない。マルコが言うように、イエスが十字架上で息を引き取った時はじめて、至聖所の幕が裂けた。だから、その時はまだだが、困難の中でも悪の世界が崩れる兆しがある。

 「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』」。 その律法学者も、イエスの敵の集団の一人だ。その人は仲間とイエスの議論を目撃していた。そして、その集団に属しているにもかかわらず、イエスの言葉、イエスの考え方に魅力を感じた。イエスと議論した人たちはすでに立ち去っており、彼は内密にイエスと話すために近づく。そして、批判や罠のためではなく、彼自身が抱えている大切な質問をイエスに出す。

 律法学者たちは神から啓示を受けたことを誇っていた。しかし、法律やルールを扱う人に当時も今もよく起こることだが、網にかかった魚のように、ルールにはまって動けなくなる。最初は善意から神の言葉を大切にしても、研究しているうちに掟にがんじがらめになり、法律家になって、正しい生き方を見失うのだ。旧約聖書には613個の掟があるとされていた。禁止の掟と義務の掟があり、禁止の掟は一年の日数である365あり、義務の掟は人体の骨の数だけあるとされていた。女性が守るべきなのは前者だけだった。時代が進むと、学派によって解釈の相違も生まれ、イエスの時代には、細かい決まりが増えていた。一つの言い伝えによると、掟はざくろの種と同じく613あるということだった。掟の数については旧約聖書にすでに出ている。詩篇15では10の掟が大切にされ、イザヤ33・15では掟は6つ、ミカ6・8では3つ、アモス5・4では2つ挙げられている。

 イエスはその律法学者は他の律法学者とちがっていると感じて、心を開き、自らの心の奥底にあることをその人に示そうとする。

 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である』」。イエスの返答は外面的に見れば、法律のレベルで答えているようだが、そうではない。「シェマー・イスラエル(イスラエルよ、聞け)」。これは出エジプト記6章にあり、ユダヤ人が毎日3回繰り返す大切な祈りの言葉だ。つまり、イエスはたくさんの掟から一つを選んで答えたのではなく、毎日唱えていた祈りの言葉で答えたのだ。だから、イエスにとって大切なのは、掟ではなく、信仰の体験そのものだ。

 4つの福音書のさまざまな箇所でイエスの祈りの深みを知ることができる。喜びの時と悲しみの時、一人山にこもる時の、父なる神への親密な祈りを福音書で読むことができる。イエスにとっては祈りは深い体験なのだ。

 「イスラエルよ、聞け」。聞けとは、従えという意味。しかし、イエスの道徳は権力者の命令から生まれるのではなく、深い心の中の愛情の経験から生まれる内面的な要求だ。父なる神と心の中で語り合う体験から、その言葉と一つになる要求が生まれる。受けた愛から愛を返す要求が生まれるのだ。こんにちの言葉を使って、イエスの道徳が生まれるのは神秘的体験からと言ってもいい。 「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』」。イエスにとって、神への愛と隣人への愛は2つの異なる愛ではない。

 イエスとその律法学者は、エルサレムの神殿の一番大きな広場にいた。レビ族ではないイエスは祭司ではないから、神殿の至聖所に入ったこともなかったが、その広場にはいつものようにたくさんのユダヤ人がいて、お香と生贄の匂いが充満していただろう。その律法学者が属していたイスラエルの宗教の荘厳さを経験するには、その場所以上の場所はなかっただろう。 私たちはなかなか想像できないが、イスラエル人にとって神殿はその建築も儀式もすばらしい場所だった。弟子たちも神殿の建物を見て感動している(マルコ13・1)。また、第二朗読からわかるように、後にキリスト者となった人もまだいろいろな理由からエルサレムの神殿の荘厳さを懐かしんでいた。だから、イエスとその人がいた場所はイスラエルの宗教の偉大さを実感するためにもっともふさわしい場所だった。

 しかし、イエスの言葉について、その律法学者はとても美しい言葉で感動を表現する。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です」。そして、「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。神を愛することはどんないけにえやホロコーストよりもすぐれている。神殿で行われるイスラエルの宗教よりそのような宗教はすぐれているのだ。

 イエスの道は掟や儀式ではなく、愛にある。「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える」(エゼキエル11・19)。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。 「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(マタイ5・23、24)。

 「あなたは神の国から遠くない」。私たちはこれを読むと、その人がイエスに従うことを期待するが、そのような記述はない。この物語も、福音書の別の物語と同じように結末がないのだ。なぜなら、その結末はその人ではなく私たちが生きることだから。