年間第15主日(C)

旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(ルカによる福音書 10:33-34より)

ペレグリン・クラベ・イ・ロケ「よきサマリア人」、1838年、聖ジョルディ・カタルーニャ王立美術アカデミー所蔵
ペレグリン・クラベ・イ・ロケ「よきサマリア人」、1838年、聖ジョルディ・カタルーニャ王立美術アカデミー所蔵

 私たち信者は今日の福音朗読箇所を何回も聞いている。よいサマリア人のたとえ話は、ルカ福音書では、放蕩息子のたとえ話に次いで有名なたとえ話かもしれない。「よいサマリア人」という名前をつけられた数多くの病院があり、その名を持つ教会や修道会(男子も女子も)や活動がある。

 よいサマリア人のたとえ話は実にシンプルでわかりやすく魅力的だ。二千年に及ぶキリスト教の歴史にはさまざまなことがありさまざまな問題について神学的に議論されてきたし、こんにちも教会はさまざまなことで(いいことでも悪いことでも)話題になる。けれども、このような箇所は素朴で深く純粋な印象を与える。たとえば、川は、村や町などさまざまなところを通り大きな川になって海に流れ込む。けれども、その川を山へと遡ってゆくと、清らかな水が最初に湧き出る小さな泉にまでゆきつく。その源に憧れるような気持ちを今日の箇所は抱かせる。このような言葉を聞くとき私たちは学問としての神学を知らなくても何らかの形で神の本質を理解し、その本心を知り、その素顔を伺い見ることができるという気になる。

 ただし、今日の箇所には、たとえ話だけではなく、絵の額縁に当たるようなところもあって、それも大切だ。それは律法の専門家とイエスのやりとりだ。イエスは旅の途中で座って話をしていたところだった。「ある律法の専門家が立ち上がって、イエスを試そうとして言った」。「律法の専門家」とは、こんにちの神学者にあたるだろう。権威をもつ人物だ。「試す」という日本語訳には罠に落とすというニュアンスがある。しかし、そこは聖書学者の見解が揺れるところだ。その専門家は実はそんなに悪い人ではなかったという見解もある。当時、律法学者のあいだに大きな議論があった。トーラー―神の掟、律法、(旧約)聖書―の中で一番大切な掟は何か。その問題を彼は、権威ある「先生」と考えたイエスに投げかけたのだ。「何をしたら、永遠の生命を受け継ぐことができるのでしょうか」。「永遠の生命」とあるから、この問いは、この世で幸せになるためにどうしたらいいかという質問ではない。究極的に大切なものは何か、流れていく物事の中で、過ぎ去っていく人生の中で何に命をかけるべきかという大切な質問だ。イエスはその人を見て、律法の専門家だとわかる。イエスはすぐには答えず、あなたはどう思うかと問い返す。それに対してその専門家が口にするのは、ユダヤ人にとって旧約聖書でもっとも重要な言葉だ。ユダヤ人はこんにちも熱心な人はその言葉を唱える。それは「シェマー、イスラエル(聞け、イスラエル)」ということばで始まる祈りだ。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。イエスは同意し、その専門家を褒める。すると、専門家は、もう一つ、当時大きな議論になっていた問題をイエスにぶつけた。「わたしの隣人とはだれですか」。今の私たちは、隣人という言葉を、隣の人という単純な意味で理解するが、ユダヤ人にとって重大な言葉だった。隣人とは同じ宗教の人だけか。同じ国の人だけか。正しい人だけか。悪いことをする人は隣人か。その質問は単純な質問ではない。よく見れば、私たちのうちにもそのような問題が起こっている。日本にも、仕事などのために第三世界など外国から来た人が住んでいて、日本人とは違った対応をして問題になったりする。ヨーロッパ、例えばイタリアでは現在、アフリカなどから毎日数千人の移民が到着し、大きな問題になっている。国民には反発する人もいる。だから、隣人とは誰かというのは大きな問題だ。要するに、その専門家は2つの大きな問題をイエスにぶつけたのだ。

 イエスは有名なたとえ話で答える。「ある人がエリコからエルサレムに下っていく途中」。エルサレムは山の上の町。エリコは海より300m低いところにある町で、エルサレムからは30キロ離れている。2つの町を結ぶ道はとても険しく、植物はほとんど生えていないが、たくさんの洞穴があり、危険な道だ。イエスは毎年家族とエルサレムに行くためにその道を通っていたから、その道をよく知っていた。エリコは金持ちの町で、今の日本で言えばベッドタウンだった。エルサレムの神殿には一万人の祭司たちが交代で仕えていたが、その多くはエルサレムに家がなかったから、30キロ離れたエリコの町に家をもっていた。だから、その道はさまざまな人が通っていた。けれども、追いはぎに襲われる危険があったから、一人で道を行く人はほとんどおらず、ふつうはキャラバンを組んでその道を通っていた。 その道で事件が起きる。「ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま、立ち去った」。そのような事件はよくあったようだ。道端にけが人が倒れていて、祭司が通り、レビ人が通る。レビ人とは今の教会の香部屋係に当たるだろう。神殿でさまざまな仕事をしていた人だ。この人たちは反対側を通っていく。その理由についても聖書学者たちの間にさまざまな説がある。ある人たちが言うのは汚れの問題だ。その人は血だらけだったが、血に触れたら汚れになるから、彼らは避けたのだと。それに対して、ルターが言うのは、追いはぎはまだ隠れていて、襲われる危険があったと。

 ここで注意してほしいところがある。初代教会が編集しルカが福音書に書き記したイエスのたとえ話には特別な意味がある。このたとえ話はただの道徳ではない。あなたも隣人を愛しなさいとか、このようにしなさい、という教訓ではない。それよりもっと大切なことをこのたとえ話は言おうとしているのだ。このたとえ話には道徳的な教えを超えた神学的な意味があるのだ。ルカが言いたいのは、私たちが日常生活でどう行動すべきかということよりも、イエスが私たちにとってどういう方かということ。それを理解するためにこのたとえ話をもう一度振り返り、このたとえ話にどのような象徴的な意味があるかに目を向ける必要がある。

 まず、エルサレムからエリコに向かう危険な道とは、世間の中の私たちの生活のこと。世間にはさまざまなことがあり、さまざまな人たちが幸せはこれだと言うが、それは罠かもしれない。過ちを犯したり、過ちを受けたりするかもしれないのだ。  怪我をしてその道に横たわっている人とは私たちだ。私たちはさまざまな形で傷を受ける。外面的な傷もあれば、精神的な傷もある。他人から受ける傷もあれば、自分で問題を起こして受ける傷もある。若いうちはさまざまな夢を抱いたとしても、生きていくうちに、まちがったり、限界にぶつかったり、失敗したり。「男子家を出れば七人の敵あり」ということわざもある。子どもを学校に行かせても、その子をだめにするさまざまな危険が待ち構えている。「裸にして、半殺しにしたまま、立ち去った」。「裸」は、聖書ではアダムとイブを連想させる。あるいは、私たちが洗礼の時に身に着けた白い衣を失った状態とも言える。幸せが失われ、心配と不安と妄想に押しつぶされる状態だ。「半殺し」とは、半分生きていて半分死んでいる状態。罪を犯して、どうしたらよいかわからず、立ち直ることができず、先に進む力もない。それは紛れもなく私たちの状態だ。

 その状態にいる私たちに大切なことが起こる。「旅をしていたあるサマリア人は」。サマリア人はエルサレムの神殿ではなく山の上で神を礼拝するなどして、他のユダヤ人から異端者とみなされて差別されていた。先々週の箇所にも、エルサレムに向かうイエスをサマリア人が歓迎しなかったとあった。だから、イエスがサマリア人を模範とするたとえ話を語るとは、律法の専門家は驚いたことだろう。

 日本語訳では分けるのが難しいが、イエスのたとえ話では、サマリア人の行動が10の言葉で描写されている。「その人を見て」。サマリア人はまずその人に気がつく。「憐れに思い」。ギリシア語の原語は、「はらわたを突き動かされる」を意味する有名な動詞だ。「近寄って、傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せて、宿屋に連れて行って、介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」。

 以上の描写はイエスの青写真だ。ルカが言いたいのは、イエスはそういう方だということ。あなたが道端に倒れているとき、立ち上がることができないときに、あなたのそばにイエスが通る。よく見なさい。その方は金持ちだから金を少し出すだけではなく、すべてを与える。その方はあなたを背負う。そして、あなたにその命を差し出す。ミサを立てるとき祭壇に十字架を置かなければならない。人を癒やす秘跡であるミサはイエスが自分を捧げることで制定されたものだ。だから、それはただの慰め、痛み止めではない。イエスはエルサレムでではなく、エルサレムの外の山の上で十字架につけられ見捨てられて血を流して死ぬことで、私たちを救ってくださった方だ。隣人は誰かという質問に対して、ルカは答える。あなたのそばにいるのはこの方だ。イエスだけがあなたのそばにいてあなたを憐れんで、あなたの問題を自分の問題にして自分の命を与えるほど、あなたを救い、癒やすことを望むのだ。

 イエスが私たちを癒やすのは秘跡によってである。たとえ話の「油とぶどう酒」は秘跡を示唆している。洗礼も堅信も聖体もイエスの薬なのだ。そして、イエスが私たちを癒やすのは教会共同体の中でだ。「宿屋」とは教会共同体のシンボルだ。イエスは私たちを孤独から共同体に私たちを導くのだ。教会とは建物ではない。建物も管理の必要はあるが、教会の本当の意味は建物ではない。教会とは共同体、イエスによって集められた私たちのことだ。共同体の兄弟愛によって、また共同体の中で聞く神の言葉によって私たちは癒やされる。イエスはその言葉によって、またその体を捧げることによって(聖体)私たちをまた元気にして、私たちが永遠の生命を受けるために力になってくださる。それが、ルカが今日私たちに伝える大切なことだ。教会共同体はただの宿屋ではなくイエスの病院なのだから、私たちはそれにふさわしい態度をとるべきだ。ミサで聞く言葉はイエスが私たちを癒やす道具だから、その言葉を聞くときにぼんやりと聞くのではなく、心に染み込むように聞かなければならない。聖体は私たちを癒やすイエスの手であるから、聖体を受ける前に私たちは互いに赦し合う必要がある。赦し合わなければその聖体は毒になる。ルカが今日私たちに言うのはそういうことだ。