年間第21主日(C)

狭い戸口から入るように努めなさい。(ルカ13・24)

降誕教会(ベツレヘム)の入り口(高さ120センチしかなく、謙遜の門とも呼ばれている)
降誕教会(ベツレヘム)の入り口(高さ120センチしかなく、謙遜の門とも呼ばれている)
 マタイの福音書を参考にしながら、自分が調べたことを加えて福音書をまとめたルカ。ユダヤ人に向かって書いたマタイは、地獄や裁きなどユダヤ人に馴染みのある厳しい言葉をたくさん使うが、旧約聖書を知らないギリシア人などの異邦人に向けてパウロとともに布教していたルカは、イエスのやさしさを描く福音記者とも呼ばれる。しかし、今日の箇所には唯一、驚くほど厳しい言葉が出て来る。なぜルカはその調子を突然変えたのか。 
 今日の箇所では、どういう人かわからないが、一人の人がイエスに一つの質問をする。「救われる者は少ないのでしょうか」。当時、ファリサイ派のあいだでは、誰が救われるかについて大きな議論になっていた。ある人たちはユダヤ人だけが救われ異邦人は救われないと考え、ある人たちはユダヤ人の少数が救われ大多数は救われないと考えていた。質問した人はこのような問題に対してのイエスの考え方を知りたかったのだろう。しかし、イエスはこの質問に直接答えない。質問自体が間違っている場合よくするように、イエスは話題を変える。そして、大切な二つのことを言う。 
1.まずイエスが言うのは、神の国に入るのが難しいということ。このような言葉を読むと私たちは勘違いしがちだ――もしかしたらイエスは私たちにもっと修行しなさいとか、たとえば洗礼者ヨハネのようにもっと厳しい生活を送りなさいとか、もっと道徳的な生活を送りなさいと言っているのだろうかと。もちろんイエスの教えの中にはこれについていろいろ大切な点があるが、ここはそうではない。イエスが言うのは、神の国に入るのは力のある人ではなく、力のない人、弱い人、小さい人だということ。神の国に入れないのは十分に修行していないからでなくて、大きすぎるからだということ。 
 ある聖書学者によると、エルサレムの城壁にはいくつもの門があり、馬車が通れる大きな門の他に、人一人がやっと通ることができる狭い門があって、その門が「針の穴」(マルコ10:25)と呼ばれていた。日本の茶道の茶室に設けられるにじり口は、高山右近などキリシタン茶人の影響があるという説もある。イエスが大切にするのは小ささだ。天国に入るのは私たちのよい行いの功徳ではなく、神のあわれみのためだ。詩編など旧約聖書のさまざまな箇所にもあるように、私たちは誰も天国に入る資格をもっていない。私たちは神の前では、ただ罪人であり、子どもである。神様から愛されているが、罪人であることが私たちの本当のリアリティなのだ。私たちが自分の過ちに気がつく前にすでに神が私たちを救おうとしている――これがイエスの中心的なメッセージであり、今日の箇所で大切な点だ。

 ルカの時代、教会では基準が少しずつ変わっていた。時間が経つとともに、イエスへの最初の憧れが薄れ、信者たちは自分の才能や地位を大切にして生活しようとしていた。しかし、ルカは、それは間違っていると言うのだ。やさしいルカが今日の箇所で突然厳しくなるのは、ちょうど両親が自分の子どもに対して普段はやさしい態度をとっていても、危険があるときは厳しい言葉をかけるのと同じだ。私たちが自分の価値や自分の行いに頼ると、救いの可能性がすべて消えてしまう。イエスのメッセージはまったく逆だ。私たちは赦されたからこそ人を赦すことができる。私たちは憐みの対象であったからこそ人を憐れむことができ、無償で助けられたからこそ人を無償で助けることができる。これがキリスト教のポイントで、ルカが厳しい言葉で私たちに思い出させようとしているところだ。

2.イエスの返答にはもう一つ怖いところがある。「主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう」。神様が私たちに、あなたたちのことを知らないと言ったら、私たちの生活の意味がなくなってしまう。日本語の訳は「不義」となっていて、「不正義」を思い出させるが、ギリシア語の原語の意味は「無駄」だ。これは、あなたたちが自分を中心にしたこと、自分の名誉を探したこと、自分が目立つために努力したことは神からは無意味だということ。私たちが判断されるのはそのためではない。教会の中でどんな地位があったか、どんな名誉があったか、人からどんなに尊敬されたかは救いの基準ではない。救いの基準は、私たちがどのように神のあわれみを受ける器になったかということだ。私たちはよく自分のことで精一杯で人を受け容れることができない。人を赦すことができず、人といい関係を結ぶことができない。イエスが言うのは、自分を空っぽにすること、自分を無にすること。これがイエスの道なのだ。パウロの手紙の有名な箇所にあるように、イエス自身がまさにそう生きたのだ。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2・6-8)。

 私たちの教会の本聖堂の扉の上には、16年前の大聖年の年から「私は門である」の字が掲げられている。これはキリストの言葉だ。狭き門とはキリストなのだ。ちょうど大人が子供と話をするときにひざまづいて子供の目線の高さになって子供の目線で交わるのと同じことを神は私たちのためにした。だから、それは私たちの道でもある。


2016年福音の再掲載。