年間第22主日(C)

婚宴に招待されたら、上席についてはならない…だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(ルカ14・8、11)

ピーテル・ブリューゲル「農民の婚宴」、1567年、ウィーン美術史美術館所蔵
ピーテル・ブリューゲル「農民の婚宴」、1567年、ウィーン美術史美術館所蔵

 先週の日曜日の福音朗読は「戸口」がテーマだったが、今日の日曜日の福音朗読ははっきりと別のテーマを中心にしている。「食事」「婚宴」「宴会」と言葉はいろいろだが、いっしょに食べるというテーマだ。それはルカ福音書でも他の福音書でも様々な箇所に出てくる。それを読むと、洗礼者ヨハネとちがってイエスは食事の集まりに参加するのが好きなようだ。それは人と会って言葉を伝えるだけではない。イエスにとっては、食事や宴会はもっと根本的なことであり、私たちの神との関係を連想させることであり、神の国を意味するのだ。

 今日の箇所も、エルサレムへの重大な旅の途中だ。イエスは自分の死に向かって顔を硬くして迷わず歩きながら、弟子たちに最後の教えを説く。「安息日のことだった」。どこかわからないが、小さな町か村に入ったイエスは、安息日だから、弟子たちといっしょに会堂にちがいない。「イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった」。その土地の人々はおそらく、イエスについての評判を聞いていただろうし、イエスと弟子たちが来たことで大騒ぎだっただろう。だから、会堂での儀式の後に、ファリサイ派の人がイエスを招いたのだろう。評判のイエスが来たから、大勢の人が集まった。そういう状況だ。

 「人々はイエスの様子を伺っていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいた」。ここで何かルカのユーモアが感じられる。つまり、人々はイエスに好奇心を抱いて、イエスの一挙手一投足に注目している。「伺っていた」とは好奇心半分、批判半分だ。イエスを見るため、この人たちはイエスを招く。しかし、実際には彼らはイエスに見られるのであり、見るのはイエスだ。彼らは、イエスがどんな態度をとるか、何を言い何を行うか見ようとする。しかし逆に、本来イエスこそが見る者だ。イエスは、ものやしるし、自然、人間の行動に深い関心を抱いて読み取った。彼らはイエスを見ようとするが、実際にはイエスが彼らを見るのだ。 

 このことは実は、こんにちの私たちの経験でもある。神を見ようとして、神から見られる。たとえば、私たちは私たちが神のために働くと思っているが、実際は神が私たちのために働いているのだ。

 この箇所でルカは、何が起こったかを細かく書いていない。却って、ルカはこの出来事をきっかけとして、イエスの2つの大切な言葉を並べる。もしかしたらそれはイエスが別な時に話したことかもしれない。今日教会はこの2つの言葉を私たちの黙想のために選んだ。

1.「婚宴に招待されたら」。イエスは婚宴という言葉を使っているが、この場面は婚宴の食事ではなく、安息日の食事だ。だから、ルカはもしかしたら、別の時に話されたことをここに書いているかもしれない。「上席についてはならない」。これは一見すると、相手におもねるための世間的常識的な助言に見える。それは浅知恵、小賢しさにも思える。しかしよく見ると、イエスが言っていることは、ただの外面的社会的人間的な謙遜、劣等感や卑屈さや卑下ではない。それは根本的なことであり、イエスが言うところの幸いと結びつくことであり、イエスが伝える神のイメージにかかわることで、ファリサイ派の人々とのあいだで議論になって彼らを怒らせたことなのだ。神が人に近づく時はいつも、自分の言葉や態度や行いを自慢に思う人ではなく、見捨てられた人など最後の人から奉仕を始める。ぶどう園の労働者のたとえ話(マタイ20・1ー16)がその典型だ。また別のたとえ話では、会堂の前の方に立って自己満足しているファリサイ派の人は罪とされ、会堂の後ろで胸を打つ徴税人は赦され家に戻る。他にも、福音書にはいろいろな話がある。「施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。…施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6・2、3)。お返しができない人に善を行うとは、先と同じように、イエスの言う賢さと結びつく。なぜなら、神の国に入る時、ちょうどそのような人たちが、扉を開けに来るからだ。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。

2.今日の箇所には、イエスが弟子たち(人々)だけではなく、会堂(教会)や社会などさまざまな環境で地位や権威、責任がある人たちに向けるもう一つの言葉がある。「お返しをするかもしれない」人を食事に呼んではいけない。却って、「貧しい人」や弱い人などを呼んで、そのような人たちで家をいっぱいにしなさいと。イエスが言うのは、慈善活動も見返りを求めず無償で行わなければならないということ。イエスはよく知っているのだ、慈善活動を行うことによって利益を得る可能性もあると。たとえば、金やサービス、奉仕によって、相手を奴隷にすることもできると。スペイン語に、カリンニョ・ケ・マータという言葉がある。人を殺す愛情・やさしさという意味だ。確かに、政治家など、相手を奴隷にできる。

 ルカが伝えるイエスの2つの言葉はこんにちも私たちに向かって、信者として、人間として、市民としてどのような態度をとるかと重い問いを投げかけている。たとえば、信者として神に向かってどのような態度をとるのか、どのような心でミサに与るのかと。感謝を抱き謙遜になって相手に心を開くことが信仰生活の根本であり、慈善活動もそこから行わなければならない。

 ミサは神とともに食べる宴会であるが、回心の祈りで始まる。教会が考えるのは、神の言葉を聞く前、聖体を分かち合う前に、回心の祈りが必要だということ。しかし、残念なことに、私たちはよくミサに遅刻して回心の祈りをせずに済ませてしまう。回心の祈りは司祭も必要だ。神の言葉を伝える司祭も自分が罪人であることを認めることからその資格を得るのだ。ミサに遅刻すると、その大切な部分を飛ばしてしまい、必要な態度をもてなくなってしまう。ミサ以外にも何かをするために聖堂に入るとき、私たちはよく心を整えるのを忘れてしまう。たとえば、私が花を用意するために教会に行くのではなく、教会に行く時神が私の世話をして下さるのだ。

 神の前で自分が罪人であり赦しが必要であると感じる自覚が信仰体験の中心だ。その体験に基づいてはじめてキリストの言葉を聞くことができ癒やしを受けることができる。

 日本では、ミサの聖体拝領の前に私たちは次の言葉を唱える。「主よ、あなたは永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」。しかし、外国でミサに与る経験がある人は、聖体拝領の前に次の言葉を唱えることに気づいただろう。「主よ、わたしは、あなたをお迎えするねうちのないものです。あなたが、ただひとことおっしゃってくだされば、わたしの魂はいやされます」。この言葉はマタイ8・8とルカ7・6にある百人隊長の言葉をアレンジしたものだ。この言葉に見られる態度は聖体拝領するために大切だ。私たちが聖体に近づくのは、自分にはその価値があるとか、それは当然の権利だということではない。自分が罪人であることを認め赦しを求めて聖体をいただくことから、本当の赦しの力、本当に人を受け入れる力が出てくる。それが私たちの態度であるべきことを忘れ、神に近づく畏れを失わないように、ミサに与る時は静かに心を整えたい。


以下の二つの動画は、聖体拝領の直前の言葉による聖歌(作曲はトマス・ルイス・デ・ヴィクトリア)。下の動画は歌詞と楽譜付。