年間第24主日(C)

お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。(ルカ15・32)

ポンペオ・バトーニ「放蕩息子の帰還」、1723―1987年、美術史美術館所蔵
ポンペオ・バトーニ「放蕩息子の帰還」、1723―1987年、美術史美術館所蔵
 今日の箇所、ルカによる福音書第15章は、ルカによるイエスのメッセージのまとめ。そこには、何かを失ってそれを見つけた人の喜びについて3回出て来る。はぐれた羊を見つけた羊飼いの喜び、無くした銀貨を見つけた婦人の喜び、遠くへ行ってしまって死んだと思っていた子供に再会する父親の喜びだ。 
 この箇所は私たちキリスト者が読み慣れているページであり、罪人である私たちに慰めと喜びを与えてくれるページだ。このページを読んで私たちは感じる――神は私たちを待っている、神の家の扉はいつでも開かれている、私たちは神から見捨てられない、と。 
 けれども、よく見ると、この三つのたとえ話のもともとの目的は、罪人に回心を勧めるというより、イエスが罪人と食事をしていることに文句を言うファリサイ派にイエスの態度を説明することだ。立派な道徳的生活によって自分を正当化するファリサイ派は、二つの根本的な間違いをしていた。その間違いとは第一に神を勘違いしていること。ファリサイ派は、神は正しい人に報い罪人を地獄に落とすと考えているが、イエスの神はあわれみの神だ。教皇フランシスコも言うように、イエスが来たのは、罪人を裁くためではなく、罪人が立ち直って生きるためなのだ。そして第二の間違いは、隣人に対しての間違いで、第一の間違いから生まれる。憐れみの神を理解しないから、隣人に対しても憐みを示すことができない。特に三番目のたとえ話で放蕩息子の兄が自分の弟のことを「あなたの子」と言う。自分の兄弟だと認めずに、他人扱いするのだ。これは父との関係の間違いから来る。兄はすべてをもっているのにそれがわからず、愛のない奴隷のように自分の家に住み、「わたしは何年もお父さんに仕えています」と自分を正当化し、そこから弟についても判断を下す。自分の不幸から相手を不幸にするのだ。こんにちの信仰生活で言うなら、祈りをしてもルールを守っても福祉活動をしても、神への愛からでなく、自分のためにするなら、兄弟との関係もだめにしてしまう。自分の力で自分を救う考え方から、神について、兄弟について、教会について、さまざまな間違いが生まれる。
 ルカは当時のどういう相手を考えて、今日の箇所をまとめたのだろうか。放蕩息子のたとえ話で言うなら、兄とは、教会に入って信者になったばかりの異邦人だったか。あるいは自分こそ本物の信者と考えて他の人たちを軽蔑し差別していたキリスト者だったか。この問題にはここでは立ち入らないが、今日の箇所をどう受け取るかはこんにちの私たちにとっても大切な課題だ。 
 放蕩息子のたとえ話は結末がなく、物語の途中で終わる。兄がその後、弟を弟として認め父の家に入ったかどうか、私たちにはわからない。結末がないのは単なる偶然ではなく、私たちへの問いだからなのだ。神についてどう考えるか、兄弟についてどう考えるか――今日のページは私たちの信仰を試している。

2016年福音の再掲載。