年間第25主日(C)

わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。(ルカ16・9)

 不正な管理人のたとえ話は有名だが、古くからいろいろな解釈があり聖書学者にとっても非常に難しいたとえ話だ。主人は私たちの論理で行動せず、イエスも不正な人物をほめるから、誰もが引っかかってしまう。でも、よく見れば、このたとえ話は先週のルカ15章の三つのたとえ話(失われた羊と銀貨と放蕩息子のたとえ話)と同じように罪人をテーマとしている。そして、罪人に恐れではなく希望と励ましを与える大切なたとえ話だ。そして、このたとえ話から生きる力を汲みとるためには、出て来る人物をゆっくり観察しなければならない。
 まず、「主人」とはユダヤ人にとっては神のこと。神は姿が見えないが、人間に対して権利をもっているだけではなく、すべてを所有している。「管理人」とは、人間のこと。私たち一人一人は神の財産を預かっており、神から預かったものを増やす役目を与えられている。金銭や家屋田畑などの文字通りの財産だけではなく、私たちの命や能力や時間や子ども、周りから受けた善意や愛情など、すべてが神から預かったものだ。ところが、神から預かった財産を「無駄使い」するのが人間の基本的な問題だ。人間は、失われた羊や銀貨、放蕩息子のように、罪を犯して、神から離れているのだ。
 「告げ口」とは罪人の立ち直りを望む愛情からではなく、罪人の処罰と滅びを望む悪意から来る。「告げ口をする者」は潜んでいるが、サタンのこと。サタンは聖書によれば神の使いで(ヨブ1・6でも、神の使いたちが集まる時にいっしょに来る)、あちこち見張りをし、人間の犯した罪を神に伝えるのが趣味なのだ。逆に、イエスは罪人のために祈り(ルカ22・32)、罪人に寄り添い味方する弁護者だ。神は罪人が生きることを望む。神の国のメッセージとは、神の憐れみによる罪人の救いの可能性のことなのだ。サタンが認めないのは神のその憐れみだ。
 「会計の報告を出しなさい」。それは死の時かもしれない。あるいは何か重大な問題が起こる時かもしれない。その時、私たちは自分の人生を振り返り、いけないことをしてしまったことに気づく。
 私たち一人一人の人生はいつか神の前で審査される。だからといって、怖がる必要はないが、自分の命や能力、子ども、財産などが神から預けられた大切なものであり、今の時が大切な時だと気づかなければならない。
 「どうしようか」(ルカ3・10、使237など、ルカではいろいろな真剣な場面に出てくる言葉)。管理人にとって最後の最後の瞬間だから、生活を変える時間もない。「土を掘る力もない」。私たちは自分の力で自分を救うこともできない。パウロも言うように、どう祈るかさえ私たちはわからないのだ。「物乞いをするのも恥ずかしい」。その恥ずかしさは、アダムが裸であることに気づいた時の根本的な恥ずかしさだ。
 「そうだ。こうしよう」。自分の弱さや失敗のために追いつめられた時、人間はふつう絶望に陥る。そこにはサタンの働きがある。けれども、自分の状態に挫けない時、回心が始まり、復活が始まる。
 「油百バトス」とは4500リットルであり、175本分のオリーブであり、2年分の労働者の賃金に相当する。「小麦百コロス」は55000キロ、42ヘクトルの畑の収穫に当たる。その借りは膨大だ。その額を少なく書き換えた管理人は、これまで悪いことをしたのに、さらに悪いことをしたように思える。しかし、イエスはそれを「賢い」と言う。なぜか。
 最終的に神がその財産を私たちに預けたのは、ご自身が収穫を得るためにではなく、私たちが互いに分かち合うためだ。管理人は、その神の御心に沿って、「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」という主の祈りを実行したことになるのだ。私たちは人を赦すことによって赦される。私たちは罪人だが、最後の瞬間に愛することができる(「愛は多くの罪を覆う」、1ペトロ4・8、箴言10・12)。だから、罪を犯し人生に失敗しすべてが崩れても、思い出しなさい、最後の救いの可能性があなたのために与えられている、とイエスはこのたとえ話で教えたいのだ。そして、天国に行くのは、自分のお金によってではなく、この世のものが消える時、助けたり赦したりした人たちが私たちに永遠なる住まいの扉を開く、と。今日のたとえ話は、自分の罪や弱さや失敗のために麻痺状態になった私たちの心に立ち直る力を与えてくれる。

2016年福音の再掲載。