年間第31主日(C)

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19・5)

 エルサレムへの旅、そして公生活の最後に、イエスはもう一度、見捨てられた者、貧しい者、罪人に憐れみを示す。今日の物語は喜びに溢れている――イエスの喜び、ザアカイの喜び、そして物語をまとめるルカの喜び。ルカは、人間の中に入り人間の傷を癒す神の訪れの喜びを感じているのだ。 
 「イエスはエリコに入り、町を通っておられた」。エリコは、紀元前7000年前にすでに存在した長い歴史のある町で、もしかしたら世界最古の町かもしれない。そして、海抜マイナス250mで、地球上もっとも標高が低い町だ。エリコにはこんにちも、ザアカイが登ったと考えられているいちじく桑が生えていて、巡礼者や観光客が訪れる。 
 「そこにザアカイという人がいた」。ルカはふつうは人の名を書かないのに、ここでは書いている。「ザアカイ」とは「清らかな人」「正しい人」という意味だ。
 「この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」。徴税人は、敵であるローマ帝国のために働き、泥棒のように無理矢理にお金を集めるその特殊な職業のためにユダヤ人から罪人とされ嫌われていた。想像にすぎないが、特別に背が低かったザアカイは、その劣等感のためにお金にすべてをかけた人だったかもしれない。背は低くても、お金を集めて、えらい人になった。でも、幸せではない。人から必要とされず、尊敬もされず、自分に満足していない。だから、イエスが来たときはいらいらし、変な好奇心も抱いただろう。自分は背の低さや職業のために皆から嫌われ軽蔑され見下されているのに、なぜこの人は大勢の人に取り巻かれているのか、と。 
 「それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った」。徴税人が子供のように木に登るなんて滅多に見られない光景だ。物語るルカ自身、その滑稽さに顔をほころばせているように感じられる。ザアカイが登ったいちじく桑の木は彼の孤独のシンボルだ。葉っぱの中に半分隠れて、イエスに呼ばれるとは想像もしなかっただろう。しかし、イエスは「上を見上げて」ザアカイの名を呼んだ。ザアカイが木に登ったのは、無理矢理に高いところに登ったにすぎないが、イエスはその彼より低くなって、ザアカイを呼ぶ。イエスがこのような態度で彼に伝えたいのは、大切なのは背の高さやお金や偉さや権力ではなく、愛だけだということ。 
 ザアカイはイエスを見ようとしていたが、じつは神が彼を探していたのだ。ある教父が言うように、イエスはある時いちじくの木に実を探しに行って、その時は見つからなかった(マルコ11・13)が、ここでは、熟して食べられそうな実がちゃんと葉っぱの中に隠れていたのだ。 
 イエスはザアカイに「回心しなさい」とは言わない。イエスが言うのは、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。それは、あなたの友になりたいということ。日本語訳の「ぜひ…泊まりたい」は、ギリシア語では「泊まらなければならない」という表現だ。つまり、私にはあなたが必要だ、あなたは私の役に立つということ。ザアカイははじめて愛されていることを経験し、自分が誰かに必要とされていることを知った。
 そこに、誰も想像できなかったことが起こる。「ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた」。「喜んで」―イエスに出会ったその喜びを私たちキリスト者はみなそれぞれの形で知っている。「迎えた」―食事だけ、泊めるだけでなく、迎えたのだ。ユダヤ人の食事は一日に一回だけ、夕食だけだったから、イエスはザアカイといっしょに夕食を食べただろうが、イエスはただ食事だけではなく、泊まるためにザアカイの家に入った。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」―「宿をとった」という表現は、パウロも使う表現で、神が住むということ。 
 イエスがザアカイの家に入った時、ファリサイ派だけでなく町中が驚いたとルカは言う。ユダヤ人たちはザアカイを避けていたから、預言者イエスがザアカイの家に泊まるなんて考えられないことだった。ザアカイは神の友でありえないと誰もが考えていたのだ。けれども、神が罪人を見るとき、過去ではなく、未来を見る。どんな罪を犯したかではなく、どんな聖人になれるかを見る。だから、救いはいつでも神から始まるのだ。

 この出会いについてルカが私たちに書き残してくれているのは、一番最初の言葉「…ぜひあなたの家に泊まりたい」と一番最後の言葉「今日、救いがこの家を訪れた…」だけだ。その間には、何時間にもわたる、二人の親密な会話があっただろう。けれども、二人が何を話し合ったかについてルカは何も書いていない。それは二人のあいだの永遠の秘密として残る。けれども、イエスに出会って洗礼を受けキリスト者になった私たちは同じことを経験して知っている。 

 そして、その会話の結果は次の箇所からわかる。「ザアカイは立ち上がって、主に言った」。「立ち上がる」とは、「復活する」と同じ言葉。「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。神の愛を知って、喜びがザアカイを満たし、新しい感謝の生活が始まる。キリスト者の慈善(チャリティー)は、救われるためのわざではない。神に救われた感謝からすべてが始まるのだ。 
 アンブロシウスをはじめ教父たちによると、ザアカイの家は教会のシンボルだ。昔の教会に時々あった破門はこんにちでは少なくなったが、教会を特別な人、エリートの人、清い人のための場所と考え、そうでない人を軽蔑し遠ざける癖がいろいろ残っている。けれども、教会は、罪人が救われる場所であり、罪人こそ入る資格があるのだ。教皇フランシスコが言うように、教会は「野戦病院」なのだ。

2016年福音の再掲載。