ベリーニ神父様の若い頃に第二バチカン公会議が開かれた。当時の神父様もその精神を生き、諸宗教対話の使徒職に召し出された。ただ、神父様が十代の頃はまだ古い時代であり、禁欲の器具もお腹に巻いたりしたそうだ。形状など詳しいことは伺っていないが、釘のように尖ったものが腹部に当たるような構造であったのではないだろうか。ある時それがトイレに落ちて流れていってしまうまで使っていた、と冗談半分で神父様は教えて下さった。イエス様の受難を思い出すために、四旬節だったか、釘をポケットに入れておくこともあったそうだ。

 こういう修行が修道会に限らず一般的だったのか、それとも宣教師になるために特に行われたのか、私は知らない。しかし、神父様が少年時代から神父様が夢見ていた日本には過酷な迫害の歴史がある。神父様はそのような修行も宣教師として日本に行くために必要なものと考えられただろうか。

 今の日本にはキリシタン時代のような拷問はない。しかし、それとはまったく異なり、神父様もまったく予期されなかっただろう形で、神父様は後年、迫害と言えるような目に遭われた。その時、それに耐えて日本に、そして京都に居続けられたのも、十代の頃のそのような禁欲があったからのようにも思える。

 2000年のコロナ禍の最中、ベリーニ神父様はガンが悪化し、余命を宣告され、京大病院からバプテスト病院のホスピスに転院された。8月4日だった。コロナ禍のせいもあるかもしれないが、私の印象ではホスピスというより緩和病棟だった。そして、私も知らなかったが、緩和病棟というのは看護師の判断で簡単にモルヒネを使うものだった。そうした看護師に神父様は「モルヒネはまだ使わないでね。まだその時期じゃないから」と言われた。まだ生きたかったというのもあるだろうが、その痛みに耐える訓練があったということでもあるだろう。それを聞いた若い看護師は戸惑い気味に見えた。実際、神父様の命はそんなに長くはなかった。

 8月14日から15日にかけての最後の晩、私は神父様の病室のソファーベッドで仮眠をとりながら、付き添った。二十年ほど前に看取った亡母もそうだったが、ガンの最期は過酷である。抗がん剤治療を受けなかった義父などはまた違った最期であったようだが、私が看取った二人は、心臓が限界に達するまで全力で走り続けるかのように、激しい呼吸が続いた。その時、担当の経験ありげな看護師が私に教えてくれた。

 「点滴にモルヒネは少ししか入っていないんですよ。我慢づよい方だから耐えられているけど、普通の人なら耐えられない、気がおかしくなると思いますよ」

 と、看護師は言われた。

 神父様が息を引き取られた後、別の看護師も、最後の夜の神父様が目を大きく見開いて上を見ておられたことを印象深そうに言われた。病室の壁には、大事にしておられた十字架のイエス様と、宣教師であった神父様が模範とされていた聖ザビエルの御絵がかけられていた。それはザビエルが臨終の際にあおむけに横たわり目を見開いて天を見つめている御絵だった。

マリア・ヨハンナM.M.