タイムカプセル

 ベリーニ神父様が帰天されてまだ4年になっていないのに、思い出がある店が一つ、また一つ閉店していく。いずれも年月を経た店だから、一つの時代の終わりと言ってもいいのかもしれないが、寂しい。思い出すきっかけが少なくなっていくような気もする。

 ベリーニ神父様は物を整理するのが下手とご自分でおっしゃっておられた。確かに本をたくさんお持ちだったし、テーブルの上には紙類が山と積まれていた。プリントアウトされたネットの説教やニュース、教会の印刷物、立ち寄ったお店で持ち帰られたちらし、会った人から受け取られた名刺、レシート。いろいろなものが食卓の上にあって、動かすとわからなくなるから動かすなとおっしゃっていた。

 そんな神父様の遺品の整理をしているときに気づいたのは、神父様は整理が下手なのではなく、タイムカプセルを作るのが上手ということだった。たくさんあった段ボール箱の一つ一つには、その当時の雑多なものが詰められていた。それを開けると、その当時のことが鮮明に思い出されるのだ。私がそれに気づいたのはある一つの箱を開けた時だった。私は号泣した。

 ベリーニ神父様は大谷大学大学院で仏教を学ばれたが、選ばれた専攻は真宗学ではなく、仏教文化だった。仏教文化を選ばれたのは幅広いことを勉強できるからとおっしゃっておられた。じっさい指導教授のもとには実に様々な関心の学生が集まっていたようだ。言い換えると、教学ではなく歴史が神父様の専門だったと言えるだろう。神父様は神学の本もたくさんおもちだったが、理論家ではなく歴史家だったと私は思う。その歴史家としての素質が整理下手と見えるほどの収集志向に結びついたのだろう。

 その神父様に教えていただいたことがある。ミサの第一奉献文は古い奉献文だが、「聖なる手に、このとうとい杯を取り」とある。「この…杯」というのは、最初期の信者たちが、イエスが実際に使っていた杯を使ってミサをささげていたことを意味すると研究者たちが推測していると。

 思い出すということはキリスト教にとって本質的なことである。このサイトでは、以前は神父様の過去の説教を掲載していて、画像を付け加えたりもしているが、その画像の一部は、神父様のタブレットに残されていた写真である。それもまた、はるばるイタリアから来られた神父様がこの日常の風景の中におられたことのあかしである。

マリア・ヨハンナM.M.